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2007年03月12日
女にしか書けない小説
いつどこで読んだか思い出せないのですが、
誰かが「女流作家という呼び方は差別だ」みたいなことを書いているのを
目にしたことがあります。
「女流作家」が差別的な呼称かどうかについてはたぶん意見がわかれるでしょう。
けれども文学と性別の関係を考えた場合、
ひとつだけ確信をもって言えることがあります。
それは世の中には「女性にしか書けない小説」があるということです。
男にできて女にできないことはそうそうありませんが、
女にはできるのに男にはできないということは結構あります。
ある種の小説もそう。
「女にしか書けない小説」なるものが確かに存在するのです。
『花宵道中』宮木あや子(新潮社)はまさにそのような小説です。
宮木あや子さんは、「女による女のためのR-18文学賞」で
大賞と読者賞をダブル受賞してデビューした新人作家。
デビュー作となる『花宵道中』(“はなよいどうちゅう”と読みます)は、
江戸・吉原を舞台に遊女たちの叶わぬ恋を描いた連作短編集です。
一読して、まずため息が出ました。
ため息にはもちろん感嘆の意味も込められていますが、
それ以上に女性に対するおそれのような感情も含まれていたような気がします。
「女って生き物はおそろしい。とてもかなわない・・・・」
読み終えてまず心に浮かんだのはそんな感想でした。
表題作「花宵道中」の主人公は朝霧という遊女です。
朝霧は吉原で生まれました。
下級女郎だった母は朝霧が七つの時死に、
身寄りのなくなった朝霧は山田屋という小見世に拾われ、遊女として仕込まれます。
器量はそれほどでもないけれど、芸事が達者で
肌が熱をおびると花が咲いたようになるという珍しい体質を持つ朝霧は
売れっ子となりました。
そんな朝霧が生まれて初めて恋をします。
妹女郎にせがまれて出掛けた深川八幡で、
朝霧は牡丹が描かれた染め物の鼻緒が美しいお気に入りの草履を
なくしてしまうのですが、ある男がそれを人混みのなか見つけ出してくれます。
「ありがとう」
男の手で足を草履に収めてもらいながら、朝霧は心から感謝を述べる。
「おれが染めたんだ、これ」
「え、」
朝霧の足下にかがんだまま男は手を伸ばし、冷えた朝霧の手を握った。
「この鼻緒の友禅。俺が染めたんだ、京都で」
男の手は温かく、指は花の蔓のように朝霧の指を絡める。
「綺麗だろ」
その蔓が放つ熱で痺れたように、絡んだ指を振り解けない。
見つめられ、熱は雫のように溜り、朝霧の身体の真ん中には炎の柱が立つ。
(「花宵道中」)
偶然出会った男が、大切にしていた草履の鼻緒を染めた男だったー。
あまりにも出来すぎた話です。
これを御都合主義と批判するのはたやすい。
けれどもぼくはこの偶然を
あえて「因果」と呼んでみたいのです。
出会わなければよかった。
でも出会ってしまった。
「因果」としか名付けようのない出会いによって、
朝霧の心に恋の炎が燃え上がります。
廓の掟も自分の未来も関係ない。ただあの人と一緒にいられればいい。
けれどもその思いは叶うことがありません。
この小説に出てくる女たちはみなそのような哀しい生を生きています。
「煙管盆に灰が小山を作るころ、適当に声がかかり、見知らぬ男と部屋に揚がる。
肌に触れる手のひらがすべすべと温かい客だった。
寒い夜のお開帳に手の冷たい客ほど嫌なものはない。
遊女たちは冷えた布団の上で無機質な痛みに無機質な声をあげて、
暗く寒い夜を越える」 (「花宵道中」)
「夜になれば好いてもいない男の魔羅を咥え込み、
明け方になれば好いてもいない男にまた会いたいと媚びを売る。
それで良いのか。(略)あと二ヶ月で茜は初見世を迎える。
仲之町に咲く桜の満開の頃、道中もなく、
知らぬ男に貫かれて花をもぐように破瓜の血を流す」 (「薄羽蜉蝣」)
苦界という言葉がありますが、
貧しくて口減らしのため売られてきたり、さらわれてきたり、
苦界に生きる遊女たちはみな幸せな人生を知りません。
ところが哀しみの感情を胸に抱えて生きる彼女たちに、
「因果」としか名付けようのない偶然が作用するとその運命が動き出します。
女という性の持つ業のようなものが彼女たちを突き動かすのです。
けれど彼女たちの恋の道行きはいつも破滅の予感を孕んでいる。
すぐそこの未来に透けて見えるのは、とても切なく、残酷な結末です。
「見合いをすることになりました。
三弥吉の言葉が蘇る。ああそれがどうしたってんだ。八津は身体の下のほうから
押し寄せる快楽の波に歯を食い縛る。どうせあたしは見合いもできぬただの女郎。
年季明けまでまだ五年、年季があければただの年増になる、ただの女郎。
そしてあんたはただの髪結い。どうして其処で足を留めておいてくれなかったのか。
乱暴に、腕を掴まれる。この痛みではきっと明日は指の痕が残るだろう。
ねえ、痕を刻まないで。いずれ消えてしまう痕なら、刻まないで。
きっと他の女にも同じ痕を残しているんでしょう」 (「十六夜時雨」)
因果の糸に導かれ、
恋の炎に身を焦がし、
ある者は死んだ男の後を追い、
ある者は地の果てまでよと足抜けし、
ある者は惚れた男のため身を引いていく。
ひとりの女の純粋な思いが組織や世間を越えようとするとき、
そこには男が到底真似することのできない凄みが生まれます。
たとえ思いを遂げられなかったとしても
そこには彼女たちが確かに生きたという証があります。
苦界に生きる女たちの心情を丁寧にすくいとった『花宵道中』は
その官能的な性描写でも男性作家たちの追随を許しません。
いずれにしてもこのような小説はけっして男には書けないものです。
そのことが男であるぼくにはよくわかるのです。
投稿者 yomehon : 2007年03月12日 10:00