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2007年02月20日

世界最先端のアート


よく知らない国のことを知るにはどうすればいいでしょうか。
その国の政治体制を調べる?それとも経済指標をみる?

いやいや、それよりもよっぽど役に立つ物差しがあります。

その国で暮らす人によって書かれた詩や小説、
その土地で育った人の手になる映画や芸術作品に目を向けるのです。

その国の人々の本音は
その国の文学や映画や芸術にこそ現れる。
ぼくはそう思います。


ところで、よくわからない国のひとつがお隣の中国です。
けれども、その独特の政治体制や経済の躍進ぶりについての本は
腐るほど出ていますが、かの国の芸術について記された本を探そうと思えば、
かなり大きな書店でも苦労するほど。

反日であるとか反中であるとか、
これだけお互いの関係がぎくしゃくしているにもかかわらず、
相手を理解する手がかりすら手に入れづらいというのが現状です。


『中国現代アート』牧陽一(講談社選書メチエ)
中国のアートシーンをさまざまな傾向別にわかりやすく紹介してくれる
きわめてタイムリーな一冊。初めて知る貴重な情報満載で、
まさに「こんな本が欲しかった!」と快哉を叫びたくなるような一冊です。


いま、中国のアートシーンは世界中から注目されているそうです。

特に有名なのは北京の「大山子(ダァシャンズ)芸術区」で、
中心の「798工場跡」には世界中から集まった画廊やアートスペースが郡立し、
ぼくは知らなかったのですが、日本からのツアーまで組まれるほど大盛況なのだそうです。

アートを警戒していた政府もその経済効果に注目。
積極的に関与するようになり、
「大山子芸術区」は北京市から保護区にも指定されたのだとか。

なるほど、たしかにこの国のアートはめちゃくちゃ面白い。

たとえばぼくはこの本で、
中国で独特の発展を遂げてきたアートがあることを初めて知りました。

なんだと思いますか?

それは「パフォーマンス・アート」です。


共産党の一党独裁下にある中国では、展覧会を自由に開くことが許されず、
たとえ事前に文化部や公安の許可をとっていても、
開催当日に中止命令が下されるような理不尽はしょっちゅうだといいます。

そこから美術展はゲリラ的に行われなければならない、という考えが生まれました。
準備は秘密裏にすすめられ、決行されたあとはすみやかに痕跡を消し去る。
当然のように時間的な制約から表現の幅には制約が生じます。
たとえばのんびりといつまでも絵を展示しているわけにはいきません。
そんな時間的余裕はないのです。
この不利な条件を逆手にとって生まれたのがパフォーマンス・アートでした。

一回性のパフォーマンスであれば証拠も残りません。
このような考えから中国ではパフォーマンス・アートが独特の発展をとげたのです。


この本で紹介されるパフォーマンス・アートは実に多岐にわたっています。

体制を批判するようなパフォーマンスはもちろんのこと、
なかには醤油を満たした大きな甕に生きた豚を抱いて入り
チャーシューをつくろうとするような馬鹿馬鹿しいものや、
人間の死体の一部を使った猟奇的なものまで、
さまざまなパフォーマンスが紹介されています。


パフォーマンス・アートはほんの一例にすぎません。
この本はさまざまな角度から「中国アートの現在」をみせてくれるのですが、
個人的に興味深かったのは前衛美術アーティストたちの置かれた状況です。


中国では昔から体制におもねる美術が主流で、
時の為政者を讃える御用美術がはびこってきたといいます。
そんななかでアートを志そうと思えば、必然的に「前衛」にならざるを得ません。

1976年4月5日の清明節(死者を弔う日)。
天安門広場に群衆が集まり、亡くなった周恩来を弔い
文革の指導者らを批判しました。第一次天安門事件です。
この事件をきっかけに1966年から76年まで続いた文化大革命は終わりました。

中国現代アートの先駆けとなった
前衛美術グループ「星星画会(シンシンホアホェイ)」が
北京に生まれたのは1979年のことです。
専制的な太陽(指導者)を否定し、星々(人々)の個性が輝くことを目指した
このグループは、「芸術の自由と政治の民主化」を要求してデモを行うなど
反体制的な前衛として活発に活動しました。


しかし現在、前衛の意味はおおきく変容しようとしています。


これまでアーティストたちの問題意識は、
体制や毛沢東様式と呼ばれる共産党支配下のイコンを打破することに
向けられていましたが、そのような問題意識じたいが成立しづらくなっているようです。

その象徴的な例が「広場」という言葉の意味です。
中国語で「広場」といえばかつては政治的な事件の舞台となった「天安門広場」を
意味していたのが、現在は「広場」は「ショッピングプラザ」を示すようになりました。
経済の繁栄とともに庶民の政治意識が薄れてきたのです。

中国共産党は2003年に企業家も党員になれるよう認めました。
かつて階級闘争の敵とした資本家に党員資格を認めるのはおかしな話ですが、
要は資本家を党に取り込むというよりも
共産党幹部じたいが資本家になって儲けようということなのでしょう。


前衛がこれまで標的にしていた体制が
気がつけば自分たちと同じ側に立っている。

体制側だけではありません。
人々の意識も資本主義を謳歌するものへと変わっている。


このような変化を映し出すかのように
中国ではポップ・アートから政治性が一挙に去勢され、
大衆消費社会の快楽を前面に押し出す「中国キッチュ」と呼ばれる
作品が数多くみられるようになったといいます。

けれどもここで安易に消費社会を肯定する表現に堕してしまっては、
かつて体制を讃えていた美術と同じようなものとなってしまいます。

中国アートの前衛たちは、とても難しい課題に直面しているのではないでしょうか。

投稿者 yomehon : 2007年02月20日 10:00