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2007年02月18日

この人が小説の読み方を教えてくれた


働けど働けど わが書棚 軽くならざり  じっと本を読む


そうなのです。
引っ越しのためヨメに本の整理を厳命され
かれこれ半日近く書棚と向かい合っているというのに、
いっこうに本は減ることがなく、
それどころか棚の奥からどんどん読みたい本が湧いてくるのは
いったいどういうわけなんだろう?


「なつかしーなーこのマンガ!」
「ずっと探してた小説、こんなところにあったのか!」
「・・・・・・ん?同じ本が三冊もあるじゃないか!!」
「あ、千円みっけ♪」
「い、いかん、このDVDはヨメに見つかっては非常にマズイ!」


ふだんは「本棚が小さすぎる」と不満タラタラにもかかわらず、
いざ片付けようとすると、どこにこれだけの量がおさまっていたのかというくらい
次々いろんなものが出てくるのです。ほんと不思議ですね。

本を引っ張り出してはパラパラとページをめくり、
思い出に残るシーンなどがあればさっと目を走らせ、
ひさしぶりの再会なのにもうお別れかとちょっぴり悲しい気分で段ボールに詰める。

そんな作業をえんえんと繰り返していたのですが、
ある一冊の本を発見した途端、ぼくの手は完全に止まってしまい、
気がつくとそのまま読みふけっていました。


故・辻邦生さんが作家志望の人たちを前に
「小説とはなにか」について語った講義録
『言葉の箱 小説を書くということ』(中公文庫)は、
ぼくに「小説の読み方」というものを教えてくれた思い出深い一冊です。


いまは中公文庫にはいっているこの本は、
もともとはメタローグという版元から出版されました。

メタローグはかつて『リテレール』という文芸誌を出していました。
我が家の本棚から『リテレール』のバックナンバーを探すと
第1号は1992年の6月1日発行となっています。


余談ですが、この『リテレール』の編集長を務めていたのが
伝説的な編集者、故・安原顯(やすはら・けん)さんでした。

ともかく毀誉褒貶の激しい人物で、
どんな問題を抱えた人だったかということは
坪内祐三さんの『文学を探せ』(文藝春秋)
村上春樹さんの「ある編集者の生と死 安原顯氏のこと」(文藝春秋2006年4月号)
などをお読みいただきたいのですが、ただぼくは、
安原さんの『編集者の仕事』(絶版)などはいまでも名著だと思います。


話が脱線しましたが、『リテレール』創刊号の巻末には
「creative writing school(クリエイティブ・ライティング・スクール)10月1日開校」のお知らせが
出ており(作家を育てるための学校のこと。アメリカの大学にはこのような学科がふつうにあるらしい)、
創作科の講師として辻邦生さんの名前があがっています。
ちなみに講義内容をみると「小説の魅力」とあります。
『言葉の箱』のもととなっているのは、このCWSで行われた講義なのです。


辻邦生さんといえば、ヨーロッパの石造り建築のようなガッチリとした構成の
緻密で端正な小説を書いた人として知られていますが、『言葉の箱』での辻さんは、
作家志望の人間ばかりを前にした講義だからでしょうか、あまり言葉を選ばず、
小説への熱い思いを実に情熱的に語っています。


そんな辻さんの言葉からぼくは小説の読み方を教えられたのでした。


といって、何か特別な極意のようなものを教えられたというわけではありません。
辻さんのメッセージはとても簡単です。

辻さんは言います。
退屈な日常やモノトーンの人生のなかで人に力を与えられるのは
「自分の好きな世界」である、と。

好きなことをしているとき人は時のたつのを忘れます。
このことからもわかるように、好きなものは人に生命力を与えてくれるのです。

人に生きる意味を与えてくれる「好きなこと」を、
辻さんは「生命のシンボル」」と名付けます。

そして偉大な小説家の作品には必ず「生命のシンボル」がみられる、と言います。


このくだりを読んだとき、ぼくは「そうか!そうだったのか!」と
生まれて初めて小説の読み方のコツがわかったと思いました。


辻さんは続けて、偉大な作家達の「生命のシンボル」の具体例を挙げていきます。


ヘミングウェイは、闘牛やアフリカでの狩猟など、
つねに「危機的状況のなかでの勇気」に目を向けました。
D・H・ロレンスは「セックス」、サン・テグジュペリは「空」、
ジェイムズ・ジョイスは「アウトサイダー」、グレアム・グリーンは「カトリシズム」、
ヘルマン・ヘッセは「雲」、ラヴクラフトは「恐怖」・・・・・・。


たしかにそうだ。
辻さんの指摘はすべて当たっている。
名作にはどれも「生命のシンボル」が必ず存在します。


辻さん言います。「生命のシンボル」を探り当てることができた人間は、
そこに身を置けば宇宙が崩れても平気、というふうに思えるはずだと。
そして次のように言葉をつなげます。


「自分を陶酔させるもの、勇気づけるもの、あらゆるものを乗り越えて
自分がいつもそこに身を置けば、楽しく、いきいきとしていられるという
生命のシンボルを発見したときに、そういうものをぜひ友達に伝えたい、
ぼくのあとの人たちに伝えたい、そういう激しい欲求に当然とりつかれる。
たとえばヘミングウェイが闘牛に夢中になっているとき、
『午後の死』や『誰がために鐘は鳴る』を書きましたが、
彼をつき動かしたのは、危機における人間らしい勇気ですね。
あるいはD・H・ロレンスが『チャタレイ夫人の恋人』のなかで、
チャタレイ夫人が庭番の男と交わるようなところで、
あんなに夢中になって書くのは、
人間の幸福はセックスの充足のなかにあるんだという
固い信念が彼にはあるからですね。生命のシンボルとか生命の意味は、
明らかにその人の生きる根源の力、ひとつの信念、確信となっている。
そういうものがないと、ものを書く場合に強い力になりません」(P52―53)


「一流の小説」と「それ以外」を見分ける基準を
これほどまでにわかりやすく説明してくれた人をぼくは他に知りません。

またこのくだりを読むと、
辻さんがここで「生命のシンボル」と名付けたものが
いわゆるテーマとか主題といった無味乾燥な言葉に
還元できるようなものではないこともわかります。


もっともその人にとって切実なもの、
これさえあれば生きていけるというもの、
これだったら昼も夜も続けられるというもの、
いてもたってもいられないくらい好きなもの、
この素晴らしさを誰かに伝えたいと思えるもの。


そういうものを見つけることのできた人だけが人の心を動かす小説が書けるのです。
でも、残念なことにそういう人はあまり多くありません。
世の中には圧倒的に「生命のシンボル」のない小説のほうが多いのです。


ところでみなさんにとっての「生命のシンボル」はなんでしょうか。
ぼくも考えてみました。


「お金」 → 特に関心なし。本が自由に買えれば充分。
「旅行」 → 特に関心なし。小説の舞台を訪ねるみたいな旅なら可。
「健康」 → 特に関心なし。本が読めるくらいの体力があればそれで良し。
「女性」 → 関心大であることは認める。ただしデートは読書の合間にしてね。
「友情」 → 友情をうんぬんする前に、貸した本返せ!
「仕事」 → コメントは差し控えさせていただきます。
「ヨメ」 →  そもそも検討に値せず。


う~ん、やっぱりぼくの「生命のシンボル」は本なのだなぁ。

投稿者 yomehon : 2007年02月18日 10:00