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2007年02月01日
観察と妄想のあいだ
いま日本でいちばんすごいエッセイを書く人が誰か、あなたは知っていますか?
きょうはぜひこの機会に「岸本佐知子」(きしもと・さちこ)という名前をおぼえてください。
岸本さんの新刊『ねにもつタイプ』(筑摩書房)は、
ぼくの知る限りたぶんまだどこにも書評がでていないと思うのですが、
そのうちきっと雪崩を打ったように絶賛の書評が出まくるに決まっている名著。
1960年生まれの岸本佐知子さんは、
上智大学を卒業した後、洋酒メーカー宣伝部勤務を経て、翻訳家となります。
翻訳家としてはニコルソン・ベイカーの紹介者として知られていますが、
それ以上に本好きのあいだではユニークな文章を書く人として知られ、
前著『気になる部分』は、かの小川洋子氏をして
「もうこれは21世紀に残したい名著!ここに天才現る!」
とまで言わしめるほどの仕上がりでした。
( 『小川洋子対話集』幻冬舎より。→余談ですがこの本の江夏豊氏と小川さんとの対談は面白いです)
そんな岸本さんが「ちくま」に3年半にわたって連載していたエッセイをまとめたのが
最新刊『ねにもつタイプ』というわけ。
岸本さんの文章の味わいを説明するのに
もっとも適したキーワードは、「観察」と「妄想」という言葉ではないでしょうか。
たとえば「郵便局にて」と題されたエッセイをみてみましょう。
このあいだ郵便局の窓口に並んでいたら、私が出そうと思ってカウンターの上に
置いていた速達の前に、「ずいっ」と自分の手紙を置く人があった。
ピンクのトレーナーを着た年配の女性である。
エッセイはこんな書き出しではじまります。
このあと、岸本さんは、なぜこの女性は平然とこんな行為にでるのかと考え、
いくつかの可能性に思い至り、自分がとるべき態度について検討します。
このあたりまでは相手をじっくりと観察する視点が活かされた文章になっています。
岸本さんの文章がユニークなのはここから。
いくつかの可能性を検討した結果、
相手の行為は「単なる割り込み」ではないかと考えた岸本さんは、
抗議しようかどうか迷います。
この時点で、相手にはいつの間にか
「山田フサヱ(53)」
という名前がつけられています。
そして「山田フサヱ(53)」にクレームをつけたらどうなるかと
岸本さんの妄想が暴走を始めます。
「上等じゃねえか」弾かれたようにパッと飛びのく両者。
フサヱはじりじりと半円形を描きながら、しだいに私をカウンターぎわに
追いつめていく。私は素早く周囲を見回す。武器になりそうなものは何もない。
対するフサヱの手の届く範囲には、ハサミ、ペン、糊などの載った書き物台、
それに傘立てに数本の傘。明らかに形勢不利。
あまりにもったいないのでこのあたりで引用はやめておきましょう。
この後、まばゆい光が局内を満たし、いきなり「郵便の神」(なんだそれ)が降臨するのですが
そのたくましい妄想ぶりはぜひ本を手にとってご堪能いただきたいと思います。
岸本さんの文章の魅力は、「観察」から「妄想」へとスライドしていくその流れに身を任せていると、
いつの間にかとんでもないところに連れていかれてしまうことです。
けれど、その魅力を支えているベースには、
翻訳業で鍛えられた確かな文章力があることも忘れてはなりません。
ゴキブリとの遭遇を戦記ものの文体で綴った「戦記」、
目玉焼きなどの食べ方をマニュアル文体でユーモラスに描いた「作法」、
時々刻々と変化する自分の意識を1分ごとに記していく「毎日がエブリデイ」など
さまざまなスタイルで読む者を楽しませてくれます。
こんなふうにいくらでもこの著者の美点をあげていくことはできるのですが、
岸本佐知子さんのエッセイのほんとうのすごさはむしろ
おそろしい文章をさらりと書けるところにあると思うのです。
「おそろしい文章」というのは、
言い換えれば、ある種の不穏な空気をはらんだ文章のこと。
「リスボンの路面電車」というエッセイがまさにそんな内容です。
何もかもがこころもちくすんで、憂鬱で、湿り気をおびたリスボンの町。
町には怪我人がおおく、その理由を著者は、狭い路地を建物すれすれに通る
路面電車のせいではないかと考えます。
そこから話題はいきなり
新宿の街に都が設置することを発表した「穴」の話に転じます。
このあたりで読者は混乱するはずです。
「これはエッセイ?それとも短編小説??」
著者は、突然設置された「穴」に多くの人や車が落ちたこと。
そこに落ちた人は二度と戻ってこなかったことなどを淡々と描いていきます。
エッセイとも小説ともにわかにはジャンル分けできない
わずか3ページの文章ですが、
自分ひとりが取り残されてしまったような
あるいは足場をはずされて宙ぶらりんになったような
奇妙な読後感を味わわせてくれます。
とかく文章の面白さが強調されがちな岸本さんですが、ぼくはむしろこのような
読む者を不安にさせるような文章をさらりと書いてしまうところに底知れない才能を感じてしまいます。
見たところもっともっと引き出しのありそうな岸本佐知子さん。
まだ読んだことがない方はぜひこの機会に手にとっていただきたいと思います。
投稿者 yomehon : 2007年02月01日 10:00