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2006年11月29日

ノーベル賞作家とAV男優

自称、他称を含め、この世界中に
「小説家」という人種がいったいどれくらいいるものなのか。
まったく見当もつきません。

でも、「その頂点に君臨する人物が誰か」ということくらいは知っています。


南米コロンビアの作家、ガブリエル・ガルシア=マルケスがその人。
(ちなみにガルシア=マルケスというのが姓にあたります。
父方と母方の双方から姓をもらうのでこういう表記になります)


ガルシア=マルケスは、1967年に発表した小説『百年の孤独』
全世界に衝撃を与えました。
架空の町マコンドを舞台に、
ブエンディア家という一族の百年の歴史を描いたこの小説は、
民話的な想像力を駆使して書かれた傑作で(なにしろ最後は豚のしっぽを持った
赤ん坊が生まれ一族は消滅してしまうのです!)、
「小説を書くのにこんなやり方があったのか!!」と世界中の読者を驚かせました。

20世紀後半最高の傑作『百年の孤独』を書いたガルシア=マルケスは、
当然といえば当然ですが、その後ノーベル文学賞も受賞しています。
ともかく世界を代表する大作家なのです。       


そんな偉大な作家の問題作がようやく翻訳されました。

『わが悲しき娼婦たちの思い出』木村榮一訳(新潮社)は、
2004年、ガルシア=マルケスが77歳のときに発表された作品。

なにしろ世界最高の小説家が10年ぶりに書き上げた新作です。
「いったいどんな内容だろう?」
誰もが期待に胸ふくらませ本を開いたはず。

ところが、この小説はのっけからぼくらを仰天させます。
なぜなら書き出しの一行で僕らが目にするのは次のような文章だからです。


「満九十歳の誕生日に、うら若い処女を狂ったように愛して、
自分の誕生祝いにしようと考えた」


なんと!
現代を代表する大作家ガルシア=マルケスの新作は、
年寄りが若い処女のからだを求め、
ついには彼女に恋して嫉妬に狂うという、
「ただそれだけ」のことが書かれた物語だったのです!!


この小説を前にして僕がまず感じたのは、「戸惑い」でした。
ガルシア=マルケスはどうしてこんな変な小説を書いたのだろう?


さすがに話題作だけあってたくさんの書評が出ていますけれども、
みなさんもこの小説をどう評したらいいのか困っているような感じがします。


『わが悲しき娼婦たちの思い出』は、
川端康成の名作『眠れる美女』(新潮文庫)に想を得て書かれています。

けれども両者は似て非なる小説です。
似ているところといえば「老人の前で裸のまま眠る少女」という設定くらい。


『眠れる美女』を読んだことのある方はおわかりかと思いますが、
あのいやらしい小説の背後には、濃厚に死の気配が立ちこめています。


精神分析学の考えによれば、死とエロティシズムは背中合わせのものらしいので、   
本来は死に近づいた老人とエロとの組み合わせはなんら違和感はないはず。
でも、『わが悲しき娼婦たちの思い出』の老人はやたらに元気なのです。
いちおう孤独な境遇にあると説明されていますが、
ラテン特有のノリなのでしょうか、「ウソだろ?」というくらい
むしろ生を謳歌しているようにみえます。


・・・さて困ったぞ。
ガルシア=マルケスがどんなつもりでこんな小説を書いたのか
ますますわからなくなってきた・・・・・。


そんな折り、書店で一冊の奇妙な本を発見しました。


『性豪 安田老人回想録』(アスペクト)は、
今年88歳を迎えた安田義章氏へのインタビューをまとめた本。
聞き手は名著『夜露死苦現代詩』9月18日のブログを参照)の著者
都築響一氏です。


安田老人のなにが凄いって、
これまで数えきれないほどの女性と交わりを持ってきた経歴もさることながら、
88歳の現在も現役のAV男優として活躍しているというのが信じられません。
しかも自宅には何台ものビデオデッキがあり、
女性たちとの行為の記録をまとめるのに余念がないという
まさに日本のカサノヴァのような生活を送っていらっしゃる方なのです。


おかしな話に聞こえるかもしれませんが、
安田老人の稀有壮大な女性遍歴をまとめたこの本を読んで初めて、
ぼくはガルシア=マルケスの書きたかったことがわかったような気がしました。


ガルシア=マルケスがこの作品で伝えたかったのは、
理屈っぽい芸術的狙いなどとは無縁な
「人間はいくつになっても恋をする」という
ごくごくシンプルなメッセージなのではないか。


安田翁は米寿を迎えたいまも女性への興味を失っていません。
たとえば好みのタイプを聞かれて曰く


「本気でぶつかってくる人じゃないとイヤだね。もうひとつはあれですよ、
お互いに信用できないと。金で動いてるわけじゃないですから。」(216ページ)


考えてみると、安田老人が他者に対する興味を抱き続けているのに対し、
『眠れる美女』の江口老人は過去ばかり回想しています。

言い換えれば、88歳の安田老人の好奇心が外に向けて開かれているのに対して
67歳の江口老人のそれは内側に閉じているのです。


川端康成が70歳を超えてまもなくガス自殺したのに対し、
ガルシア=マルケスは80歳を前にしてなお元気です。

その違いは、
他者に対して開かれているか否かにあるのではないかという整理は、
あまりにも図式的にすぎるでしょうか。


でもぼくは思うのです。
ノーベル賞作家だろうがAV男優だろうが、
年をとってもなお、他者への興味をキープし続けることは
とても大切なことなのではないかと。

ガルシア=マルケスと安田老人は
他者に対してオープンマインドであるという点で同じです。

そしてそれは、もっとも幸福な年のとり方ではないかと思うのです。

投稿者 yomehon : 10:00

2006年11月20日

前世をめぐる冒険

ときどきふとしたきっかけに思い出す本がある。
不思議なことにそういう本は、
読んでいる最中はそれほどでもなかったのに、
読み終えた後のほうがずっと心に残るのだ。
そう、それはまるである種の女性との出逢いにも似ている・・・・なんちゃって。


でもホントにそういう本ってあるんですよ。
ぼくがときどき思い出すのは10年前に読んだあるノンフィクションのこと。

なんていうんでしょう・・・。
読んでいるときはずっと半信半疑で、
読み終えた後もなんだかもやもやとしたものが残って、
でもずっとその本のことが心に残っているというか・・・。


その本の名は『デジデリオラビリンス』。


実を言えばこの本のことをノンフィクションと呼ぶことには若干の抵抗をおぼえます。
なぜならこの本は「前世」について書かれたものだからです。

そもそも「前世についてのノンフィクション」などという言い回しが成り立つのかどうか。
もし自分が書店で帯にそのような宣伝文句が書かれた本をみつけたら、
まずインチキ本だと疑ってかかるはず。

そんなわけでこの本は、忘れられない読後感を残しながらも、
我が家の本棚では小説でもなくノンフィクションでもない微妙な位置を占めていました。


なぜこんな本の話を持ち出したかといえば、
いつものように書店を徘徊している時に偶然
この本が文庫化されているのを見つけたからです。


『前世への冒険――ルネサンスの天才彫刻家を追って』


文庫化にあたって改題されていてあやうく見逃すところでしたが、
著者である森下典子さんの名前が目にとまって
「あ!あの本だ!!」と気がつきました。


森下典子さんにはなんどかお目にかかったことがありますが、
好奇心を満々に湛えた目がとても印象的な
まさに「才気煥発」という言葉がぴったりの女性。
みずからの茶道体験をみずみずしい文章で綴った名著『日々是好日』(飛鳥新社)など、
これまでいくつもの素晴らしい文章を発表しています。


なのにこの本に関しては
読んでいるあいだ中ずっと
宙づりの気分を味わわされていました。


森下さんの書いた本だから、
書かれていることは本当だと信じたい・・・
でもにわかには信じられない・・・
いや、それでもやっぱり本当かも・・・・・というふうに。


森下さんの『前世への冒険』のはじまりは、
ある女性誌編集部からの一本の電話でした。
京都に前世がみえると評判の女性がいて、
その人に前世をみてもらって体験記にまとめてほしい、というのです。

そしてその清水さんという女性との出会いが
森下さんを予想もしなかった旅に連れ出します。


清水さんのやりかたは、
何日か前から“肉断ち”をしたうえで午前中に寺に行き、
護摩の火の前に座り炎を透かしてその人の前世をみるというもの。

清水さんにみてもらった森下さんの前世は驚くべきものでした。
なんと彼女の前世は、ルネサンス期にイタリアはフレンッエで活躍した
「デジデリオ・ダ・セッティニャーノ」という彫刻家だったというのです。


レオナルド・ダ・ヴィンチやミケランジェロならともかく、
デジデリオなんて名前の彫刻家、ほとんどの人が初めて耳にするはずです。

ところが調べてみると、ほんとうにいたのですね。そういう人が。
このあたりから話は俄然おもしろくなっていきます。

当初はフィレンッエに住む日本人に協力を依頼して調べていましたが、
ついには森下さんみずから現地調査を行うことになります。


「話しながら連れだって中央駅を出たところで、私はその景色に思わず立ち止まり、
心の中で両の腕を大きく広げた。声にならない溜め息が洩れた。
通りを挟んで目の前に、教会がそそりたっている。
『サンタ・マリア・ノヴェッラ教会です』
と、西山さんが指した。
胸がじーんと熱くなった。
(とうとう来た・・・・・・!フィレンッエに来た・・・・・!) 」(128ページ)


わかるなぁ。
ぼくもフィレンッエの駅に降り立ったときは森下さんと同じように感動しました。

サンタ・マリア・ノヴェッラ教会は美しい佇まいで知られる教会です。
装飾的ではない白くシンプルな外壁が楚々とした雰囲気を醸し出している。
初めてこの教会を訪れたとき、ステンドグラスを透過した一条の朝日が
スポットライトのように教会の床を浮かび上がらせているのをみて、
思わず涙が出そうになったことがあります。

実はこの教会の一角にはデジデリオの作品があるのです。
このような美しい空間のなかで、
もしかしたら自分と運命の鎖でつながっているかもしれない人物の作品と
数百年の時を超えて対面するというのは、
想像するだけでもかなりドラマティックな体験ではないでしょうか。


「前世なんてほんとうにあるの?」という疑いは
この本を初めて読んだ昔もいまも消えることなくぼくのなかにあります。
「前世」という言葉に拭いがたい胡散臭さを感じてしまうからです。

でも本のなかで
次々にドラマティックで衝撃的な場面にぶつかる森下さんをみているうちに、
いつしか彼女の驚きや感動がこちらに感染してしまうのも事実。
そしてしまいには彼女と一緒になって
謎解きに夢中になっている自分に気づかされるのです。


謎解きの興趣を損なわないためにも
これ以上内容に立ち入ることはやめておきますが、
『前世への冒険』のおもしろさは、
全体がわくわくするようなミステリー仕立てになっていることもさることながら、
森下さんがデジデリオという彫刻家の生涯を辿るプロセスがそのまま
秀逸なルネサンス美術案内になっている点にもあります。


前世を信じる、信じないにかかわらず、
もしもあなたが「人生は予想外の出来事に満ちている」という言葉に肯いてくれるなら
この本の扉はあなたに対しても開かれているはずです。

投稿者 yomehon : 10:00

2006年11月16日

この人はもうすぐ芥川賞をとるに違いない!

・・・いや、直木賞かもしれないな。

まあどっちでもいいのです。そんなことは。

ともかく今日は、芥川賞にしろ直木賞にしろ
そういう大きな賞を近いうちに必ず受賞するに違いない
いま大注目の作家について、ぜひみなさんに知っていただきたいのです。

その作家は柴崎友香(しばさき・ともか)さん。

6年前にデビューした作家さんですが、最近めきめきと力をつけてきていて、
最新作の『その街の今は』(新潮社)を読み終えたとき、ぼくははっきり確信しました。  

「柴崎さんは近いうちに必ずや芥川賞を受賞するに違いない!」


『その街の今は』の舞台は大阪。
主人公は28歳の女性です。

彼女は勤めていた会社が倒産して、カフェでアルバイトをしています。
いまは親元で暮らしていますが、近いうちに一人暮らしをするつもり。
彼氏はおらず、ときどき合コンに参加したりクラブに行ったりしています。

・・・う~ん、こんなふうにストーリーをまとめてしまうと
なんてことはない小説のように思えてしまうかもしれないな。

しかしけっしてそんなことはありません!

この小説はひとつ、とてもユニークな特長を備えているのです。
そしてその特長こそがこの小説を傑出したものにしている。

「ユニークな特長」とはなにか。
その秘密はタイトルに隠されています。

『その街の今は』

タイトルにあるように、この小説は「街」を描いた小説です。
そして柴崎友香という作家は、街を描くのが抜群に上手い作家なのです。


小説の舞台は大阪だとさっき紹介しました。
でもこの小説にでてくる大阪は、ぼくたちが知っている大阪の街とは違います。


たとえば、「裏側からみた大阪の街」。

主人公が川沿いの喫茶店でナポリタンを食べている場面にはこんな描写がでてきます。


「フォークにオレンジ色の麺を巻き付けながら、窓の外に目をやると
道頓堀川に面した対岸のビルが見える。半地下になっている店なので、
川は見えない。道頓堀川も御堂筋を西へ越えると派手なネオンも少なく、
結構な年数が経った建物たちは、一様に川に背を向けているというか、
道路側の目一杯存在をアピールする外装と比べると、飾り気もなく
空気穴のような暗い窓があるだけで淋しいというか舞台のセットの
裏側を見てしまったみたいな気持ちになる」(56ページ)


うまいですよね。
たくさんの観光客で賑わう派手な外装の建物も、
裏側からみると「空気穴のような暗い窓」があいているだけ。
このようにそこで暮らす人間の視点から眺めた街の姿がこの小説のそこここに出てきます。


もうひとつは、「時間をさかのぼった大阪の街」。

昔の大阪の街が写された写真を眺めるのが大好きな主人公に、
友人の男の子が古い写真を渡す場面を見てみると―――。


「写真は十枚ほどで、端が反っていたり皺になったりしていた。
コントラストの弱い、全体的に明るい灰色の白黒写真で、
どれも水が乾いた後のような黄色い染みができているけれど、
写り自体は鮮明だし歩いている人やビルからしても四、五十年前に見えた。
『それ、心斎橋みたいやから』
いちばん上にある写真は、大丸心斎橋店への御堂筋側の玄関前だった。
人通りの多い歩道で、白い帽子を手で押さえて笑っているワンピースを着た
女の人のぽっちゃりとした体の感じが、妙に生々しく感じられた」(97ページ)


「全然知らない場所の知らない人たちなのに、胸の奥のあたりがざわめいて
ずっと見ていたくなる」ほどに、主人公は昔の大阪の写真を見るのが好き。

なぜこれほどまでに彼女は古い街の写真に心惹かれるのでしょうか。


「突然、わたしはその光景が実際にあったものなのだと強く感じた。
その映像の中に映っていることがあって、そのあと何十年かの時間が流れて、
わたしが今いるここになっているのだと、思った」(107ページ)


「なんていうか、自分が今歩いているここを、
昔も歩いた人がおるってことを実感したいねん。
どんな人が、ここの道を歩いてきたんか、知りたいって言うたらええんかな?
自分がいるとこと、写真の中のそこがつながってるって言うか・・・」(116ページ)


そう、誰もがみな「その街の今」を生きているけれど、
ひとたびぼくたちが暮らす街を掘り起こせば、
そこには「今」だけではなく過去の時間も折り重なっている。
かつてそこで泣き笑い暮らした人々の記憶が、地層のように堆積しているのです。

小説を小説たらしめる最大の条件が「人間を描くこと」だとするならば、
柴崎友香さんはまさに、街を描くことで人間を浮かび上がらせるという
高度な芸をみせてくれています。


昨今の純文学は、精神を病んだ主人公とか壊れた家族の話とか
人間をどアップで描いたような作品ばかりで、正直辟易としていたのですが、
そんな中にあって『その街の今は』は、
あたかも遠くにすえたカメラをゆっくりとパンさせるかのようにして、
変わり続ける街と、その街を舞台に繰り返される人間の営みをうつしとっています。

このような貴重な才能にこそ
芥川賞のような大きな賞を与えるべきではないか。

清々しい読後感を胸にぼくはそう思いました。

投稿者 yomehon : 10:00

2006年11月13日

 「格差」の根っこにあるもの

先日ある新聞社の経済部の友人と飲む機会があって、
景気回復の話になりました。    

景気の回復が続いて「いざなぎ景気」を超えたなどと新聞は伝えているけど
本気で回復していると思ってんの?とぼくがいちゃもんをつけたのがきっかけです。

「いざなぎ景気」は
1965(昭和40)年から1970(昭和45)年にかけて続きましたが、
友人によれば、あくまで指標の上とはいえ
2002年1月を底に景気の拡大は続いており、
この11月にいざなぎ景気を抜く58ヶ月目に突入したのは
紛れもない事実なんだそうです。


「でもそうはいってもたしかに実感はないよね」
そう友人も認めました。


そのとおり!
まったく景気が回復しているという実感はない。
というか、前よりも悪くなっているような気がする・・・・。


多重債務者の実態に鋭く斬り込み
話題となっているノンフィクション『下流喰い』須田慎一郎(ちくま新書)によれば、
2000年と2004年を比較した場合、全給与所得者のうち、
年収1千万円を超えた人が1万8千人増えたのに対し、
300万円以下の人は160万人も増加しているのだとか。
04年には生活保護世帯も全国でついに100万世帯を超え、
都市部の公立小中学校で就学援助を受ける子供の数も4割ちかく増えています。
年間所得が平均値の半分にも達しない人の割合を示す貧困率は15・3%。
これは日本が先進国中アメリカに次ぐ格差社会であることを示しています。


どうしてこうなってしまったのでしょうか?


そのような疑問を見事に解きほぐしてしてくれるのが、
『悪夢のサイクル ネオリベラリズム循環』内橋克人(文藝春秋)です。


ネオリベラリズムというのは、ひとことでいえば「市場原理主義」のこと。
経済学の傍流にすぎなかったこの思想がなぜ世界を席巻し、
その結果どんな事態を引き起こしたかということを、
この本は説得力をもって描いています。


1929年に発生した大恐慌の反省にたって、
アメリカでは市場を律するさまざまな厳しい法律がつくられました。
「神のみえざる手」、つまりマーケットにすべてをまかせてはいけないと考え、
政府が市場に適切に介入するという経済政策をとったのです。

これはジョン・メイナード・ケインズが唱えた政策です。
ケインズは、一部の資本家が市場を支配することがないよう規制を設けること、
それに不況の際は政府が財政投資と公共事業によって雇用を確保することなどを
主張しました。ようするに政府がリーダーシップをとってあれこれ国民の面倒を
みるべし、というのがケイジンアンの考えかたです。

ところがアメリカがベトナム戦争に失敗したあたりから風向きが変わり始めます。

戦費負担がかさんで財政が悪化し、インフレ率と失業率が上昇します。
政府はこの事態に対処できず、政府批判の声が大きくなりました。

このときに表舞台に登場したのが、
ミルトン・フリードマンという経済学者でした。


東欧出身の貧しいユダヤ人家庭に生まれたフリードマンは、
苦学しながら大学に通い、やがてシカゴ大学の教授に就任します。

一族がナチスや共産主義によって迫害されたフリードマンは、
国家よりも市場こそが平等で信じるに足るものだという考えを持つに至りました。

そして市場原理主義を旗印に、当時全盛だったケインズ学派に戦いを挑むのです。   

フリードマンの考えでは、
経済をコントロールするにあたって重要なのは貨幣の供給量のみで、
あとは市場にまかせておけばいい、ということになります。
このフリードマンの考えをアメリカの中央銀行(FRB)が採用したのは1979年のこと。
ケインズ的手法からフリードマン的手法へ政策を大転換したのです。

ここからネオリベラリズムの快進撃がはじまります。

アメリカ中の大学でフリードマン流の経済学が教えられるようになり、
教え子たちが国際機関や各国の中央銀行などに就職していきます。
その後、市場原理主義が「グローバリズム」の名で世界を席巻したのは
みなさんもよくご存知のとおりです。


ネオリベラリズムはそれほどまでに正しい思想なのでしょうか?


フリードマンの考えを極端なまでに実践したのが、
アルゼンチンやチリに代表されるラテン・アメリカ諸国です。
結論からいえば、この試みは失敗し、貧富の差が拡大し国富は国外に流出しました。

『悪夢のサイクル』の核心部分がこの点です。

サブタイトルにある「ネオリベラリズム循環」という言葉。
これは新潟大学の佐野誠教授の発見した法則で、
市場原理主義の政策が必然的に引き起こす景気循環を意味しています。


「ネオリベラリズム循環」とは何か。


日本でも、ネオリベラリズムに宗旨替えしたアメリカからの圧力で
規制緩和が叫ばれ、さまざまな分野で規制が撤廃されました。
その後の日本経済がたどったプロセスを乱暴に要約すれば以下のようになります。


①規制がなくなり、市場が整備されると、
「日本のマーケットは商売がしやすいらしいぞ」というので
海外マネーが流れ込んできます。

②マーケットは過熱し、バブルが発生します。
バブルになると借金経営が常態化します。
景気がいいのですぐに金が返せると思うからです。
企業だけではなく、国や自治体も国債や地方債を乱発します。


③そうこうするうちに、おいしい思いをし尽くした海外マネーが流出し、
景気は下降線をたどります。
景気の底で、「このままではダメだ。もっと規制を緩和しなければ!」というので、
さらなる改革が行われます(小泉内閣はこの時期にあたります)。
労働現場における規制が緩和され企業の非正社員化が進み、
企業の合併や外資による資本参入が当たり前となり、
再び「おっ!また日本のマーケットが商売になるらしいぞ!」と
海外マネーが目をつけ景気が拡大します。


・・・・と、このように①~③のプロセスを繰り返すうちに
共同体のつながりは破壊され、地域社会は荒廃し、治安は悪化して
肝心の国民の生活はどんどん悪くなっていく、というわけです。
これが「ネオリベラリズム循環」、すなわち「悪夢のサイクル」です。


日本のネオリベラリストといえば構造改革を主導した竹中平蔵氏。
もっといえば小泉政権じたいがネオリベコンセプトにのっとったものでしたが、
この「悪夢のサイクル」という分析が正しいとすれば、
ネオリベラリズム的な政策をとりつづける限り、
ぼくたちの生活は一向に良くならないということになります。


国家は市場に介入すべきか否かという専門的な議論はぼくにはわかりません。

ただひとつだけ素人のぼくにもわかるのは、「極端な考えは失敗する」ということです。

国家が生産から消費にいたるまでのすべてをコントロールしようとした社会主義は
失敗しました。それと同じように、なにからなにまで市場にまかせようとする
市場原理主義もうまくいかないのではないかと思います。


フリードマンの極端ぶりを示すエピソードがあります。

ケネディ政権で黒人の差別問題がクローズアップされたときに、
こうした問題にさえも政府が介入するのに反対だったフリードマンは、
こう言い放ちました。

「黒人の差別問題は貧困問題である。
彼らが収入の高い仕事につけず、不況になると真っ先に解雇されてしまうのは、
十代のときに怠けて勉強しなかったため、
企業が必要とする技術を身につけていないことが理由である」


フリードマンは1976年にノーベル経済学賞を受賞しています。
貧乏ななか努力してここまで登りつめたのはある意味すごいことですが、
彼の不幸は、誰もが自分と同じようにできると考えているところではないでしょうか。


投稿者 yomehon : 10:00

2006年11月09日

官能小説はエライのだ!

「神経衰弱しようよ」
「???」


いつものようにくつろいで本を読んでいると、
ヨメが珍しくぼくをトランプ遊びに誘うではありませんか。


・・・これはなにか魂胆があるに違いない。
不穏な空気を感じたぼくはとりあえず
「やだね」
と拒否しました。

するとヨメは
「じゃあひとりでやるからいい」
と言う。

やけにあっさりと引き下がるじゃないかと不審に思いつつも
「ヨメの気まぐれにつきあう必要がなくなったからまあいいか」とホッとしたそのとき!!


ヨメがテーブルの上に並べ始めた“カード”をみてぼくは目を疑いました。

いや、正確にいえばそれは“カード”ではありませんでした・・・。


『思い出トランプ』向田邦子(新潮文庫)が二冊・・・・
『青い雨傘』丸谷才一(文春文庫)が二冊・・・
『村上龍料理小説集』(講談社文庫)が二冊・・・
『檀流クッキング』檀一雄(中公文庫)が二冊・・・


「ちょ、ちょ、チョットマッテクダサーイ!!」

あまりに動揺したぼくは、
気がつくとガイジンのような変なイントネーションでそう叫んでいたのです。


・・・・・それからの2時間は思い出したくありません。


ヨメはどうしてこういうジャンルだけ語彙が豊富なのかと
思わず感心するほど多種多様な罵倒語を繰り出し
(この分野に限ればヨメは掛け値なしに“言葉の魔術師”です)
ぼくはといえばなすすべもなく言葉の絨毯爆撃を浴びるだけでした。


まぁヨメの怒りはわからんでもありません。
ただでさえ狭いマンションで収納に苦労しているのに
同じ本がこうもたくさんあるのは理不尽だと怒るのはある意味当然かも。

「本棚のどこかにまぎれて探すのが面倒くさい。だから買ってしまえ!」

そう思って買ってしまった本もあれば、

「おかしいな~たしかに家にあったと思ったんだけど気のせいか。じゃあ買おう!」

そう考えて買った本もある。

こうして本棚に双子が増えていったわけです。


しかしヨメもある程度まではぼくの本棚を調べられたものの
どうやら文庫本のペアを見つけ出すのが精一杯だったようです。


「本棚にあるのは一卵性双生児だけではない!二卵性もあるのだ!!」


そう高らかに宣言しつつぼくが指さす先にあるのは
現代日本文学の最高傑作『パンク侍、斬られて候』町田康(マガジンハウス)。

そしてその指先を右に20センチ動かすと、おお!
『パンク侍、斬られて候』町田康(角川文庫)があるではないか!!


本棚にあるのは文庫本のペアとは限りません。
このように単行本と文庫本のペアもあるのでした。

人間の遺伝子は99%までチンパンジーと同じだといいますが、
残念ながらこの「大きさの違うペア」を見破れるかどうかという点が
人間であるぼくとチンパンジーであるヨメを分かつ境界線のようです。


すでに単行本で持っているものを文庫で購入しなおす。
これは本好きにしか理解できない行動かもしれません。

ひとつは貴重な本が紛失したときの保険、という意味合いがあります。
同じ本を二冊持っていれば安心ですよね。

もうひとつは文庫化にあたって加筆がなされたり解説がつけ加えられたりする。
その部分を読むという目的があります。
これはもう、単行本とは違う別の本である、とみなすべきでしょう。


こんなふうに自分なりにいたって正当な理由があるものですから、
しばしば文庫化を機に再購入するのですが、
最近「よくぞ文庫化してくれた!」と小躍りしながら購入したのが
『官能小説用語表現辞典』永田守弘・編(ちくま文庫)。

『官能小説用語表現辞典』永田守弘・編(マガジンハウス)として
2001年に刊行されたものの文庫化です。

永田守弘さんは『ダカーポ』の名物連載「くらいまっくす」を
創刊時から担当されていて、
毎月数十編の官能小説を読みこなすこのジャンルの目利き。   

そんな永田さんが膨大な作品群から
ありとあらゆる官能表現を抜き出しまとめたのがこの本です。
これはたいへんな労作です。


そもそも官能小説とはなんでしょうか。

ひとことでいえば、
「セックス」という単調な行為を文章表現、官能表現の工夫で
飽きさせないようにする日本独特の文芸ジャンル、です。

だから必然的に官能小説の世界では
「日本語の実験」とでも呼びたくなるような
作家達の悪戦苦闘が日夜繰り広げられることになります。


たとえばこの本をめくると、まず目に飛び込んでくる「女性器」という項目から
アトランダムに作家たちの考案した呼称を抜き出してみると・・・・


「赤い傷口」
「あたたかい秘密の沼」
「ご本尊」
「淑女の龍宮城」
「魔唇」


どうですか?
「魔唇」なんてとてもユニークな表現だと思いますね。
こんどは「男性器」から抜き出してみましょう。


「暴れ棒」
「いけない坊や」
「赤銅色の杭」
「尊厳」
「噴チン」


まさか男性器を「尊厳」と表現するとは・・・・。
ちなみにこの言葉、実際に作品ではこんなふうに使われます。


「身体を繋いでしまえば、オスとメスである。
社長も社員もへったくれもない。
そう思ううち、乃木の尊厳はますます勃然としてきて、
風呂の中で猛々しく打ちゆらいできた」(南里征典『紅薔薇の秘命』)

文庫本では新たに「絶頂表現」の項目が加わっていて、
それはそれでおおいに楽しめるのですが、
ぼくはやっぱりこの本の白眉は「オノマトペ」(擬音ですね)の項目だと思います。
ユニークきわまりない表現が並んでいて飽きません。

では今回は、そのほんの“さわり”の部分をご紹介しながらお別れといたしましょう。


ヴィヴィヴィヴィィイインンンッツ
ギュルギュルと、それからグゥーンと
クニクニ
くなりくなり
ツンツク・・・・・ツンツク・・・・・
ポッキン!


投稿者 yomehon : 10:00