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2006年10月23日
打ちのめされるような書評
ある日のこと。
池袋ジュンク堂書店1階の新刊棚をチェックしていると
名物副店長の福嶋さんと店員さんがやってきてこんな会話をはじめました。
「1階はこのとおり全部売れちゃったんですよ」
「3階はどう?」
「3階もごくわずかしかありません」
ん?
なに?なになに?なんだそれは!?
本好きにとって聞き捨てならない会話を耳にして
いてもたってもいられなくなったぼくは、
ふたりに気づかれないよう背後に忍び寄りました。
そうしてようやく話題にのぼっている本のタイトルがわかったのです。
そうか!あの人の本か!!
「あの人」とは、米原万里さん。
米原万里さんは、ゴルバチョフやエリツィンが
名指しで仕事を依頼してくるほどの腕前を持つロシア語の同時通訳だった人。
それだけではありません。
彼女はまた、文章の名手でもありました。
『不実な美女か貞淑な醜女か』(新潮文庫)や
『魔女の1ダース』(新潮文庫)などのエッセイで本好きを唸らせたかと思えば、
傑作ノンフィクション『嘘つきアーニャの真っ赤な真実』(角川文庫)をものして
うるさがたの読書家どもを沈黙させ、
初挑戦の小説『オリガ・モリソヴナの反語法』(集英社文庫)では絶賛を浴び・・・
ともかく輝かしい文業を誇る才能あふれる書き手でした。
米原さんの作品はどれもいいけれど、ぼくがもっとも好きだったのは「書評」です。
彼女は書評の名手でもあったのです。
『打ちのめされるようなすごい本』(文藝春秋)は
彼女がこの世に遺したたった一冊の書評集。
第一部が週刊文春に連載されていた「私の読書日記」、
さまざまな媒体に発表された書評を集めたのが第二部となっていますが、
個人的に思い出深いのは「私の読書日記」です。
米原さんの書評の特徴は、
ロシアや中欧などについての圧倒的な知識に代表されるあふれんばかりの教養。
そして読者に対する徹底したサービス精神です。
印象に残っている書評がいくつもあります。
たとえば、週刊文春2005年10月20日号の書評で米原さんは、
小泉政権のなりふりかまわぬ対米追随ぶりを批判して、
いまこそ初代チェコスロバキア大統領マサリクに学ぶべきだといいます。
マサリクは日本ではほとんどその名を知られていませんが、
ハプスブルク家の支配下にあったチェコ民族を300年ぶりに独立に導き、
スターリンのソ連、ヒトラーのドイツと周辺国が軒並み独裁体制に移行する中、
チェコスロバキアを中欧で唯一の民主主義国家にした偉大な指導者です。
・・・・とかなんとか知ったかぶりして書いていますが、
米原さんの書評で教えられるまで、不勉強なぼくはマサリクを知りませんでした。
彼女のすすめに従って読んだ『マサリクとチェコの精神』石川達夫(成文社)、
『マサリクとの対話』カレル・チャペック(成文社)によって初めて、この圧倒的な
スケール感に満ちた政治家の人となりを知り、感銘を受けました。
週刊文春2003年11月27日号の「私の読書日記」はこんな文章で始まります。
「 ×月×日
診断は卵巣嚢腫。破裂すると危険なので内視鏡で摘出することになった。
『健康保険制度がないために入院費がバカ高いアメリカでは日帰りで済ませる
手術です』と執刀医。『入院は五日間で十分です。すぐ仕事に復帰できます』とも。
それでも、術後は真夜中まで朦朧としていた。麻酔がきれかかったとき、母が
危篤状態になったと知らされた。翌朝、車椅子を押してもらって母の病棟まで
行った。回復不能なのに人工呼吸器が取り付けられた母の身体は温かく、
手を握り締めていると涙が止めどなく流れてくる」
そして日をあらためてこんな記述がでてきます。
「×月×日
自らの意志で徹夜したことは数限りなくあるが、不眠症に苦しんだことは
皆無な私が昨晩は一睡もできなかった。なのに今夜も眠れそうにない。
次々と癌で死んでいった友人たちの顔が浮かぶ。嚢腫だと思っていたものが、
癌だったと告知された」
自らが癌であることを知った後、彼女の「読書日記」はどうなったか。
類い希なる読書家の目は医療や癌関連の本に向けられ、
「書評と闘病記とのドッキング」というおよそ類例のない展開を
みせることになるのです。
そこで目撃することができるのは、
読むことがそのまま生きることにつながっているような読書です。
このような迫力のある書評をぼくは他に知りません。
米原さんは、残り少ない日々にあっても本を読み続けました。
そして冷静な批評と読者へのサービス精神が結びついた見事な書評を
書き続けたのです、
今年5月―、米原万里さんは亡くなりました。
もう二度と彼女の書評が読めないと思うと残念でなりませんが、
そのかわりに彼女は、読み応えのあるたくさんの文章を残してくれました。
ぜひこの機会に『打ちのめされるようなすごい本』を手にとってみてください。
1995年から2006年までに休むことなく書き継がれた
彼女の全書評がおさめられた珠玉の一冊です。
投稿者 yomehon : 2006年10月23日 10:00