« 2006年09月 | メイン | 2006年11月 »

2006年10月30日

面構えのいい作家たち

芸能界きっての読書家といえば俳優の児玉清さん
特にミステリーに関しては日本でも有数の読み手でしょう。

そんな本好きの大先輩にあるときお目にかかる機会があったので
前々からうかがいたいと思っていた質問をぶつけてみました。


「あの~児玉さんは海外の面白いミステリーをどうやってみつけるんですか?」


児玉さんは海外ミステリーの新作が翻訳されるのが待ちきれずに
原書で読んでしまうほどのミステリー好き。
初めて世に出た新人作家の作品などもぼくたちより一足はやく目を通されて
いるうえに、しかもそのなかから「これは!」という作家をみつけだす読書眼を
お持ちです。

翻訳された海外ミステリーのなかから面白い作品をみつけるのは
実はそんなに難しいことではありません。日本語に翻訳される作品は
すでに海外でそれなりの評価を得たものがほとんどだからです。

原書の段階で面白いミステリーをみつけるほうがはるかに難しい。
児玉さんはいったいどうやって面白い本をみつけだすのだろうか?


「・・・・顔かな」


え?顔ですか?


「そう顔。“面構え”というのかな。
面白い小説を書く作家はそれなりの顔をしているものですよ」


児玉さんは作家の顔写真をみて面白い作品かどうか判別するのだといいます。

なるほど。では近年、印象に残る顔をしていた作家というと?


「うん。ひとりいるね。彼の小説を初めて手に取ったとき、
まるでこちらに挑みかかるような目をしていたものだからとても印象に残った。
間違いなくこの人は気合いの入った面白い作品を書くに違いないと思いましたよ」


児玉清さんが“面構えがいい”と評した作家。
それがジェフリー・ディーヴァーです。

『12番目のカード』池田真紀子・訳(文藝春秋)は、
ミステリーファンにはお馴染み「リンカーン・ライム」シリーズの最新刊です。

ご存知ないかたのために説明すると、
リンカーン・ライムはニューヨーク市警の捜査顧問を務める科学捜査の専門家。
ようするに鑑識のプロです。

しかも彼は、首から上と左手の薬指一本しか動かせません。
かつてはNY市警の科学捜査部長でしたが、建設工事現場での鑑識作業中に
落下してきた鉄骨に首を直撃され、四肢がほぼ完全に麻痺してしまったのです。
以来、ライムはある時はベッドに横たわり、またある時は車椅子に乗って
持てる科学捜査の知識を駆使して犯罪者と戦っているのでした。


ジェフリー・ディーヴァーが『ボーン・コレクター』(上下巻 文春文庫)をひっさげて
ぼくたちの前に姿を現したのは1997年のこと。
ミステリーファンにとってディーヴァーの登場はひとつの事件でした。

どんでん返しの連続で先がまったく読めないプロット、
リンカーン・ライム、NY市警殺人課刑事のアメリア・サックス、
介護士のトムといった魅力的なキャラクター。
しかもシリーズを通じて作品の水準がまったく落ちないことにも
われわれミステリーファンは驚愕したのでした。


シリーズは5作目の『魔術師(イリュージョニスト)』(文藝春秋)でひとつの頂点を極めます。
ミステリー史上最強の犯罪者といっても過言ではない、
ハンニバル・レクターと怪盗ルパンとデヴィット・カッパーフィールドを足したような
サイコ魔術師を敵に回して息詰まる頭脳戦を演じ、
第5作『魔術師』は“シリーズ最高傑作”と言われました。


『12番目のカード』はその次にあたるシリーズ第6作目です。
前作が良すぎただけに過大な期待を抱かないようにして読み始めたのですが、
いやはやジェフリー・ディーヴァーはやっぱり凄い作家です。
この作品も間違いなく今年のミステリーランキングの上位にランクインされるでしょう。


ハーレムの高校に通う黒人少女が博物館で調べ物をしている最中に襲われます。
遺留品はレイプに使われる道具と一枚のタロットカード。
当初は強姦未遂事件かと思われましたが、ふたたび少女が狙われるに及んで、
リンカーン・ライムはなにか別の動機があることに気がつきます。
ヒントは少女が博物館で調べていた140年前の記事にありました。
少女の先祖は解放奴隷のチャールズ・シングルトン。
シングルトンが関与した140年前の事件にライムの頭脳が挑みます・・・・。


今回もまたこちらの予想をはるかに超えた結末が待っています。
寝しなに読み始めると、あまりの面白さに必ずや眠るのが惜しくなるはず。
徹夜必至のとても危険な本なのです。


ところで“面構えのいい作家”で思い出したのですが、
日本ではまだそれほど知られていないけれど、
いい顔をした作家をぼくも知っています。
児玉清さんほどの読書眼はありませんが、名前をあげておきましょう。

ジャンリーコ・カロフィーリオというイタリアのミステリー作家です。

カロフィーリオは、イタリア・プーリア州の都市バーリの現職検察官。
専門は凶悪組織犯罪。つまりマフィアの取り締まりが彼の仕事です。

検察官を務めながら、2002年に作家デビューし、
いきなりイタリアの5つの文学賞を総ナメにしました。

そのデビュー作『無意識の証人』石橋典子・訳(文春文庫)は、
妻に逃げられた38歳の弁護士が、少年を殺害した容疑で逮捕された
出稼ぎアフリカ人の弁護にのぞむ話。
一見、地味なストーリーですが、裁判のプロセスに重ねて、
ひとりの男性の心の成長を丹念に描いた佳品です。
南イタリアの空気を感じさせるような乾いた文体と
東洋文化への傾倒ぶりが独特の雰囲気を醸し出してもいます。

この『無意識の証人』を絶賛しているのが
本日紹介したジェフリー・ディーヴァーであることもつけ加えておきましょう。
先物買いの好きなかたはぜひチェックしてみることをオススメします。

投稿者 yomehon : 10:00

2006年10月23日

打ちのめされるような書評

ある日のこと。
池袋ジュンク堂書店1階の新刊棚をチェックしていると
名物副店長の福嶋さんと店員さんがやってきてこんな会話をはじめました。


「1階はこのとおり全部売れちゃったんですよ」
「3階はどう?」
「3階もごくわずかしかありません」


ん?
なに?なになに?なんだそれは!?


本好きにとって聞き捨てならない会話を耳にして
いてもたってもいられなくなったぼくは、
ふたりに気づかれないよう背後に忍び寄りました。
そうしてようやく話題にのぼっている本のタイトルがわかったのです。


そうか!あの人の本か!!


「あの人」とは、米原万里さん。

米原万里さんは、ゴルバチョフやエリツィンが
名指しで仕事を依頼してくるほどの腕前を持つロシア語の同時通訳だった人。
それだけではありません。
彼女はまた、文章の名手でもありました。
『不実な美女か貞淑な醜女か』(新潮文庫)
『魔女の1ダース』(新潮文庫)などのエッセイで本好きを唸らせたかと思えば、
傑作ノンフィクション『嘘つきアーニャの真っ赤な真実』(角川文庫)をものして
うるさがたの読書家どもを沈黙させ、
初挑戦の小説『オリガ・モリソヴナの反語法』(集英社文庫)では絶賛を浴び・・・
ともかく輝かしい文業を誇る才能あふれる書き手でした。

米原さんの作品はどれもいいけれど、ぼくがもっとも好きだったのは「書評」です。
彼女は書評の名手でもあったのです。


『打ちのめされるようなすごい本』(文藝春秋)
彼女がこの世に遺したたった一冊の書評集。

第一部が週刊文春に連載されていた「私の読書日記」、
さまざまな媒体に発表された書評を集めたのが第二部となっていますが、
個人的に思い出深いのは「私の読書日記」です。

米原さんの書評の特徴は、
ロシアや中欧などについての圧倒的な知識に代表されるあふれんばかりの教養。
そして読者に対する徹底したサービス精神です。

印象に残っている書評がいくつもあります。

たとえば、週刊文春2005年10月20日号の書評で米原さんは、
小泉政権のなりふりかまわぬ対米追随ぶりを批判して、
いまこそ初代チェコスロバキア大統領マサリクに学ぶべきだといいます。

マサリクは日本ではほとんどその名を知られていませんが、
ハプスブルク家の支配下にあったチェコ民族を300年ぶりに独立に導き、
スターリンのソ連、ヒトラーのドイツと周辺国が軒並み独裁体制に移行する中、
チェコスロバキアを中欧で唯一の民主主義国家にした偉大な指導者です。

・・・・とかなんとか知ったかぶりして書いていますが、
米原さんの書評で教えられるまで、不勉強なぼくはマサリクを知りませんでした。
彼女のすすめに従って読んだ『マサリクとチェコの精神』石川達夫(成文社)、
『マサリクとの対話』カレル・チャペック(成文社)によって初めて、この圧倒的な
スケール感に満ちた政治家の人となりを知り、感銘を受けました。


週刊文春2003年11月27日号の「私の読書日記」はこんな文章で始まります。


「 ×月×日
診断は卵巣嚢腫。破裂すると危険なので内視鏡で摘出することになった。
『健康保険制度がないために入院費がバカ高いアメリカでは日帰りで済ませる
手術です』と執刀医。『入院は五日間で十分です。すぐ仕事に復帰できます』とも。
それでも、術後は真夜中まで朦朧としていた。麻酔がきれかかったとき、母が
危篤状態になったと知らされた。翌朝、車椅子を押してもらって母の病棟まで
行った。回復不能なのに人工呼吸器が取り付けられた母の身体は温かく、
手を握り締めていると涙が止めどなく流れてくる」


そして日をあらためてこんな記述がでてきます。


「×月×日
 自らの意志で徹夜したことは数限りなくあるが、不眠症に苦しんだことは
皆無な私が昨晩は一睡もできなかった。なのに今夜も眠れそうにない。
次々と癌で死んでいった友人たちの顔が浮かぶ。嚢腫だと思っていたものが、
癌だったと告知された」


自らが癌であることを知った後、彼女の「読書日記」はどうなったか。

類い希なる読書家の目は医療や癌関連の本に向けられ、
「書評と闘病記とのドッキング」というおよそ類例のない展開を
みせることになるのです。

そこで目撃することができるのは、
読むことがそのまま生きることにつながっているような読書です。
このような迫力のある書評をぼくは他に知りません。

米原さんは、残り少ない日々にあっても本を読み続けました。
そして冷静な批評と読者へのサービス精神が結びついた見事な書評を
書き続けたのです、

今年5月―、米原万里さんは亡くなりました。
もう二度と彼女の書評が読めないと思うと残念でなりませんが、
そのかわりに彼女は、読み応えのあるたくさんの文章を残してくれました。

ぜひこの機会に『打ちのめされるようなすごい本』を手にとってみてください。
1995年から2006年までに休むことなく書き継がれた
彼女の全書評がおさめられた珠玉の一冊です。

投稿者 yomehon : 10:00

2006年10月18日

 「偶然」か「必然」か

う~いかん・・・また本を読むのが止められず徹夜をしてしまった・・・。
まぶたは腫れ、眼球は充血し、首と肩は鉄板のように凝っています。

体に無理がきかなくなったというか、急に体力の衰えを自覚したのは、
ぼくの場合35歳を超えたあたりからでしょうか。
それからというもの、面白すぎる本のせいで徹夜してしまった日などは、
昼間こっそり新橋の喫茶ル●アールなどで仮眠をとるのが
習慣になってしまいました。おかげで本日も●ノアール行きが決定!
・・・・・くれぐれも会社には内緒なのでよろしくお願いします。


ところで今日は眠い目をこすりながらみなさんに聞いてみたいことがあるのでした。


あなたが生まれてこのかた経験した「もっともありえない出来事」はなんですか?


【例1】
たとえば飛行機に乗ろうとして急に便意を催したために搭乗手続きが間に合わず
結果的に飛行機事故をまぬがれた、とか。

【例2】
あるいは映画館で隣り合わせた男性が小学校時代の初恋の人で
お茶したのをきっかけに交際がはじまり結婚までゴールインした、とか。

【例3】
街でチンピラにからまれていた女子高生を助けたらなんとそれが長澤まさみちゃんで
「こんどお礼にお食事にでもいきましょう」とメルアドを渡された、とか。


最後の【例3】にモーレツに心ひかれる自分をおさえつつ話を先にすすめますが、
以上のような「ありえない出来事」というのは、
ふつう世間では「偶然の出来事」であると考えられています。


「おこりえない出来事が偶然おこった」(だからドラマチックだ)


こんなふうにぼくたちは考える。
でも、そうではなくて、


「すべては起こるべくして起きている」


としたら?
すべては偶然ではなく必然である、としたら?


そんなアイデアをもとに書かれたサスペンスが
『数学的にありえない』上・下巻 アダム・ファウアー 矢口誠【訳】(文藝春秋)。

新人作家のデビュー作でありながら、世界16カ国でベストセラーとなった、
まさに読み始めると止まらない作品です。

この作品、ストーリーはとってもシンプルに要約できます。

主人公は統計学を専門とする天才数学者のケイン。
彼はギャンブル依存症で破滅寸前であると同時に
ある病気の発作にも苦しめられています。
ところがこの病気には実は人類の常識を根底からくつがえす秘密が隠されおり、
やがてケインは政府機関から追われるようになります・・・。

主人公が追われ、追われるうちに能力を開花させ、最後に真相が明らかになる。

このように作品の構成はとってもシンプル。
でもだからといって、内容までが単純かといえばさにあらず。
アイデアの核となっているのは、最新の物理学の知見です。


17世紀にニュートンが万有引力の法則を発見し、
ここから古典物理学の歴史が始まりました。
ニュートンはこの世界を神がつくったと考えていました。
神によってつくられたこの世界は不変の法則に支配されている。
そう考えたのです。

これから起きることは、これまで起きたことに起因する。
なぜなら両者はあるひとつの法則に支配されているからだ。
このような考えを「決定論」といいます。

ところが20世紀になって、ハイゼンベルグという物理学者が、
「不確定性原理」という革命的な理論を発表します。
ハイゼンベルグが主張したのは、
この世界は偶然性に左右されるということ。
彼の主張は現代の物理学にもおおきな影響を与えています。


『数学的にありえない』の面白さは、
この20世紀には否定されたはずの「決定論」を、
「ある理屈」をもとにして現代に復活させた点にあります。

ネタバレになるのであまり詳しくは書けないのですが、「ある理屈」というのは、
選ばれた者だけがこの世界を支配する法則にアクセスでき、
その結果、選ばれた者は未来の姿をみることができる、といったようなことです。

ドミノ倒しのように連なる因果の鎖がもしもこの目に見えたとしたら・・・。
その人はちょっとした行動で因果律に干渉することによって
予想もできないようなおおきな事態を引き起こすことができるでしょう。


「食堂車までくると、ケインはポテトチップスを何袋も買った。そしてナヴァが
質問を口にするより早く、歯を使ってポテトチップスの袋をあけながら、
車両後部に向かってよたよたと歩きはじめた。
ケインは黒いパネルスイッチを押して自動ドアをあけ、食堂車とつぎの車両を
つないでいる連結部の金属板の上に立った。金属板の狭い隙間からは、
飛びすぎていく線路が見えている。ケインはその場にしゃがみこみ、
その隙間にポテトチップスをぶちまけはじめた。最後の一袋を空にしたときには、
ケインの足もとにはポテトチップスの空き袋が山積みになっていた。
『気でも狂ったの?』とナヴァは訊いた。
『ああ』とケインは答えた。『どうやらそうらしい』 」 (下巻71ページ)


池に投じた小石が波紋を広げていくように、
追われるケインがばらまいたポテトチップスは
出来事の連鎖にどのような影響を与え、
どのようなありえない事態を引き起こすのでしょうか。


なお、作者のアダム・ファウアーは幼い頃に難病で視力を失い、
少年時代は病床で多くの小説をテープで「濫聴」して過ごしたそうです。
視力はやがて回復、大学で統計学を学び、
いくつかの有名企業でキャリアを積みますが、
ともに作家になるのを夢みていた幼なじみが
末期ガンに冒されたのを期に会社を辞め、
小説を書き始めたそうです。

作家自身の半生が「ありえない人生」ではないでしょうか。

投稿者 yomehon : 10:00

2006年10月16日

二都物語

2週間ほど前にぼくの身の上に起きた“驚天動地の出来事”のせいで
まったくブログの更新ができませんでした。
ずいぶんご無沙汰してしまってすみません。
いずれあらためて書く機会もあるかと思いますが、
ともかくその“驚天動地の出来事”のせいで、
この2週間はバタバタとあわただしく動き回っていました。


ところで息つく間もないような毎日をおくっているとき、
忙しさがマックスなとき、
あるいはテンパッているとき、
ぼくの頭のなかではいつも決まってこんな言葉がぐるぐるとまわっています。


「あぁ・・・・京都いきたい・・・」


なぜこんなにも京都が好きなのでしょうか。
なぜこんなにも京都に恋い焦がれているのだろう。
ぼくにとっての京都はそうだな~
伊右衛門のCMに出てくる宮沢りえちゃんみたいな
和服美人の膝枕でやさしく耳かきしてもらっているような、
そんな夢のような心地よさをもたらしてくれる場所なのです・・・・・ってわかりにくいすかね?
(いちどヨメにそう説明したらものすごく冷ややかな目でみられたことがあります)

ま、それはいいんですが、
ともかく正確に数えたわけではないけれど
これまでに京都を訪れた回数はゆうに50回は超えていると思います。


エッセイストの酒井順子さんは、30歳をすぎてから
「京都って、何だかやたらと楽しい」
と思うようになったとか。

『都と京』(新潮社)はそんな京都フリークの酒井さんの手になる本。
ちなみにタイトルは「都と京」と書いて「みやことみやこ」と読ませます。
字面から推察できる通り、この本は「東京」と「京都」というふたつの都市を比較した都市論。
それも切れ味鋭く両者を比較検討した痛快な都市論なのです。

酒井順子さんといえば『負け犬の遠吠え』で30代以上のキャリアウーマンの
胸の内を鋭く分析して話題となったのが記憶に新しいところ。
けれども面白さではこの『都と京』も負けてはいません。

意地悪な観察眼。
意地悪なくせに丁寧な「です・ます調」で綴られた文章。
豊富な語彙と卓抜な比喩
読者にはおなじみの「酒井節」は今回も健在です。


では『都と京』において、
京都と東京はどんなふうに比較されているのでしょうか。
ちょっとみてみましょう。

たとえば【言葉】では、「いけず」(京都)と「意地悪」(東京)が、
【料理】では「薄味」と「濃い味」が比較検討されています。

まぁこのあたりは予想通りというか、比較としてはよくある組み合わせでしょう。
「京都は“ハレめし”もいいけど“ケめし”もいい」などといった卓見もみられますが、
雑誌やガイドブックでの知識程度にしか京都を知らない人でも
ついていけるレベルの話題です。

ではこれはどうでしょう?


【宿】 「俵屋」と「コンラッド」


「○○」と「××」という二項対立での面白さを狙う場合、
「○○」と「××」にそれぞれ何をチョイスするかが
書き手がセンスを問われる部分となります。

その意味で、「俵屋」と「コンラッド」は絶妙のコントラストをなしていると思います。
(俵屋をご存じない方は『俵屋の不思議』村松友み(世界文化社)をどうぞ)

客にほどよい孤独感をもたらしリラックスさせながら、
まるで心を読まれているかのようにサービスが行われる俵屋。
そこでは「委ねる勇気」が必要だと酒井さんはいいます。

対するコンラッドは近年東京で主流のスモール&ラグジュアリーなホテル。
雑多な視線の飛び交う大規模なグランドホテルとは違って
そこは限定された階層の人々が集う場所。
そこで必要になってくるのはセンスのいい人々に「見られる勇気」です。

ふたつの都市を代表する宿を比較することで、
それぞれの都市での人々の振るまいの違いもみえてくる。その面白さ。


さらにこの本で特に出色の対比をあげるとするならば、それは

【文学】 「綿矢りさ」と「金原ひとみ」

ではないでしょうか。


酒井さんはまず冒頭でとても面白い問いを投げかけます。
よそ者の小説家はこぞって京都を舞台にしたがるけれど
京都出身者はあまり京都のことを書かないのはなぜだろうか、と。

けれど、京都出身の小説家は少ないけれど、
その一方で京都出身の歌人は他県に比べ突出して多いのです。

それはなぜか?そこにどんな秘密が隠されているのか。

この文章は、文芸評論としても出色です。
都市を切り口に文学作品を読み解き、
『都市空間のなかの文学』(ちくま学芸文庫)などの名著を遺した
文芸評論家に故・前田愛さんがいますが、
酒井さんは前田さんがやったようなことをとても平易な文章でさらりと書いている。
これはほんとうにすごいことだと思います。


なお、ぼくが思わずニヤリとしたのは


【書店】 「恵文社」と「abc」。


「恵文社」は本好きにとってはまさに夢のような書店です。
「よそで手に入る本はよそで買ってください。うちは置きたい本しか置きません」
そんな正しい姿勢に貫かれた素晴らしい書店。

こんなアイテムを出してくるところが酒井順子さんのあなどれないところです。

ともかく、京都と東京で比較できるところはまだまだあります。
酒井さんの指摘に「そうそう」とうなずいたり「へ~」と感心したりしながら
ぜひあなたなりの比較を考えてみては?

この本であげられていないものでぼくが思いついたのは「バー」。
「祇園サンボア」と「銀座テンダー」なんてどうでしょうか?
いかにもふたつの都市の文化を代表しているように思うのですが。

投稿者 yomehon : 10:00