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2006年09月25日
5年半ぶりの再会
大好きな人物と再会する。
それが5年半ぶりともなれば興奮するなというほうが無理な話です。
『狼花』大沢在昌(光文社)は、あの「新宿鮫」シリーズ9作目となる最新刊。
特に今回は2001年2月に刊行された前作『灰夜』以来5年半ぶりとなる新作。
あのかっこいい孤独なヒーロー鮫島とひさしぶりに再会するとあって
すっかり興奮したぼくは、5年以上も待った新作であるにもかかわらず
たった1日で読み終えてしまいました。ああなんてもったいないことを!
でも読み始めたら面白くて止まらなくなってしまったのですから仕方ありません。
今回物語の発端となるのは、新宿中央公園で発生した傷害事件です。
ナイジェリア人どうしがクスリの取引をめぐって仲間割れし、相手を刺した男が
大麻樹脂のはいったバッグを奪って逃走。
新宿署生活安全課の鮫島は、盗品を安全にさばける市場があるのではないかと
捜査をすすめ、やがて“泥棒市場”とでもいうべきブラック・マーケットがあることを
突き止めます。そしてそのマーケットを仕切っていたのは意外な人物でした・・・。
新作『狼花』のキーワードは、「時代の変化」です。
まず、時代とともに犯罪の質が変わってきました。
そのことが作品の重要なモチーフになっています。
警視庁は2003年に全国の警察にさきがけて組織犯罪対策部を発足させました。
組織犯罪のカテゴリーに入るのは暴力団や外国人犯罪グループですが、
特に外国人による犯罪は検挙数をみてもここ数年急増する傾向にあります。
今回、『狼花』では、外国人犯罪を取り締まるために暴力団を利用しようとする
警察キャリアが鮫島の前に立ちはだかります。
また長く続くシリーズものだけあって、登場人物も年をとります。
特に気になるのは鮫島と恋人晶との関係。
晶がボーカルをつとめるバンド「WHO‘S HONEY」は、シリーズ開始当初は
アマチュアだったのですが、現在は立派なメジャーバンドに成長しています。
有名になりすぎたこともあって以前のように気軽に会えなくなったふたりの関係は、
今回の新作にいたってますます薄い空気のようなものとなっています。
この手のマンネリはシリーズものにはつきものです。
おそらく作者のなかでは、晶という登場人物の役割は終わっているのではないか。
次回作かその次か、そう遠くないところでふたりの関係に決定的な終止符が
打たれるような気がします。
マンネリといえば、作者がそれを打破しようとしたのかどうかはわかりませんが、
この『狼花』で、長いあいだ鮫島の敵役だったふたりの登場人物が
姿を消したのには驚きました。
「新宿鮫」シリーズは第9作目にして大きな転換点を迎えたようです。
これまでの集大成の感もある『狼花』。
次回作(いつ読めることやら)からはまったく新しい物語が始まるのか、
それとももっとおおきなクライマックスに向かう予兆にすぎないのか、
これからも「新宿鮫」シリーズから目が離せません。
【追記】
『狼花』で初めて「新宿鮫」シリーズに触れるかたには、
できればその前に第5作『炎蛹』、第6作『氷舞』を読むことをオススメします。
このふたつを読んでおけば『狼花』がどうしてシリーズの転換点にあるかが
よくわかるからです。読むのが大変そう?だいじょうぶ。
10日はまったく退屈せず過ごせるはずです。
投稿者 yomehon : 10:00
2006年09月18日
日本語に愛羅武勇!
ああ!やっとこの本のことをみなさんにご紹介できます。
この本のもととなる連載が文芸誌『新潮』ではじまったときは興奮しました。
それ以来、ふだんは文芸誌なんて読まないのに、
この連載を読むためだけに毎月『新潮』を買っていました。
毎回毎回とびきりの刺激に満ちていた連載は、
全16回をもって今年の4月号で終了。
待ち望んだ単行本化がようやく実現したのです!
『夜露死苦現代詩』都築響一(新潮社)は、これはもう断言してしまいますが、
ここ10年ほどに出たすべての文芸評論のなかでもピカイチの本!
日本語の可能性をとことんまで追究した瞠目すべき一冊です。
著者の都築響一さんは、見た目は生粋の日本人ですが、中身は外国人。
いえ、というか、より正確に言うならば「外国人の目を持った人」です。
バブル華やかなりし頃、メディアではお洒落なインテリアで飾られた部屋ばかりが
紹介されていました。そんなイメージの洪水に抗うかのように都築さんが世に
問うたのが、傑作写真集『TOKYO STYLE』(現在はちくま文庫)でした。
安アパートで暮らす若者たちの個性的な部屋の数々を写しだした写真集は
海外でもおおきな反響を呼びました。
都築さんはいつもメディアのつくりだす画一的なイメージや硬直した社会通念に
外国人のような目で「それはおかしい!」と気がつきます。
そしてぼくたちに多種多様な世界のありかたを提示してくれるのです。
今回、都築さんが選んだのはなんと現代詩の世界でした。
“現代詩”ときいてみなさんはどんなイメージを思い浮かべるでしょうか。
「現代詩?なにそれ?」「詩だって。ぷぷ・・」「現代詩?別に興味ないし」
うむ。どれも正しい反応です。
いまや現代詩なんてマイナーもマイナー、絶滅寸前の表現形式です。
なぜ現代詩はそうなってしまったのでしょうか。
この本の冒頭で都築さんはこう書きます。
「行き詰まった現代音楽や、行き詰まった現代美術とまったく同じように、
現代詩の業界もどんづまりまで行き詰まって久しい。
行き詰まった業界人はいつでもどこでも、『難しくする』ことで生き残ろうとする。
『わからないのは、お前に教養がないせいだ。だからオレサマが書いた本を読め、
教えてやるから学校に入れ、美術館に来て入場料を払え』というわけだ。
そうやって、聞いてもちっとも気持ちよくない現代音楽や、見ても楽しくない現代美術のように、
読んでもわからない現代詩が、業界の中だけで細々と生き延びている」(8ページ)
大切がことがいきなり書かれています。
ぼくたちが文学とか美術といった「権威」を前にしたときに
ダマされないためにはどうすればいいか。
そう、ダメな作品ほど難解ぶってぼくたちをダマそうとすると考えればいいのです。
(同じ現代詩でも谷川俊太郎さんの詩はぼくたちにやさしく語りかけてくるではないですか)
都築さんはかさねて大切なことをいいます。
「でもね、すべての芸術はまず落ちこぼれに救いの手をさしのべる、
貴重な命綱だったはずだ。頭のいい人たちのオモチャである前に」(9ページ)
そのとおり!!
その証拠に、落ちこぼれの最たる者どもである暴走族の紡ぎ出す言葉をみよ!
「夜露死苦」という言葉をあげて都築さんは、過去数十年の現代詩業界の中で、
これを超えるフレーズをひとりでも書けた詩人がいただろうかと問いかけます。
そして都築さんは、いまリアルにぼくらの心に突き刺さってくるような日本語を生み出す人々を
探す旅に連れ出してくれるのです。
けれど都築さんがぼくたちを案内してくれるのは思いがけない場所ばかり。
たとえば痴呆老人たちの生み出す言葉たちをあなたは目にしたことがありますか?
あたしを釣ろう、ったって天の筋がピシャン!
やっぱり鮭なら砂漠にかぎるとね
大きなお魚かとおもったら、あんたは痴漢ね
すごい・・・。
「意識の流れ」なんてコンセプトを頭で考えて詩を書いたシュールレアリスムの連中が
アホにみえるほど、作為の感じられない天然の言葉。しかもポエジーも感じます。
かと思えば、10年前に起きた池袋母子餓死事件の遺書が紹介される。
これほどまでにマイナスの渦に読む者をまきこむ力を持った言葉があるでしょうか。
なかにはこんな言葉も紹介されます。
女がいて 男がいて
燃えて 別れて 未練が残る
人生とは そのような事の繰返し
よくある話ですね
どこにでもある話です
「今日でお別れ」
菅原洋一さんです
「玉置宏の話芸 あるいは分速360字のトーキング・ポエトリー」と題された章では
玉置さんの話芸に隠された秘密を知ることもできます。
今年から貝が胃に棲み始めました (今年から海外に住み始めました)
洗濯物と離婚できました (洗濯物取り込んできました)
うちの子は時価千円でした (うちの子は耳下腺炎でした)
都築さんの目配りは誤変換の文字にまでおよびます。
このように、きわめて多様な「日本語」がぼくたちの前に示されます。
その言葉の群れをみていると、自分の抱いていた日本語に対するイメージが
いかに貧しいものであったかということを思い知らされます。
不用意にこんなこと言うとアナウンス部あたりを敵にまわすかもしれませんが、
もしみなさんの前で「正しい日本語」などと口にする人間がいたら
まず眉に唾してください。
「正しい日本語」なんてありません。
「おおむねこの使用法が正しい」と決めておかないと不都合が生じるから
そうしているだけであって、正しさの基準なんて時代によって変わります。
(そもそも「正しい日本語」なんて口にする人間は、言文一致が近代の日本語に与えた
インパクトのこととかわかって言っているのでしょうか?)
日本語の持つ自在さ。日本語の持つ可能性。
もしかしたら都築さんがここで紹介した言葉のなかには
次の時代のスタンダードが含まれているかもしれません。
日本語に関心のあるすべての人は必読の一冊です!!!
【プロの編集者の方々へ】
都築響一さんの雑誌連載「サルマネ クリエイター天国」の単行本化を切に希望!
世間で評判のもの、売れているもののデザインなどにいかにパクリが多いかを
暴いたこの連載には、各方面からの圧力もすごかったと聞きます。
そんなプレッシャーをものともせず単行本化していただいた暁には
ぼくが責任もって10部買い取ります。だからお願い!
投稿者 yomehon : 09:00
2006年09月12日
料理の奇跡
得体の知れない食べ物に遭遇したとき、人はいったいどういう行動に出るか。
みなさんは知っていますか?
答えは「まずニオイをかぐ」です。
海外を旅したときのことを思い出してください。
言葉もわからないまま注文して出てきた料理を目にしたときのことを。
ごく自然と前屈みになり、鼻を皿のところにもっていって、くんくんとかいだはずです。
これはもう、人間に備わった自己防衛本能みたいなもの。
おそらく太古の昔から人間はこの本能によって
命を危険にさらすような食べ物を回避し続けてきた違いありません。
その日の夜、ぼくが目の前にしていたのも得体の知れないシロモノでした。
ヨメが目の前にドン!と置いた器のなかをのぞきこむと、
なんだか白っぽい色をした刻んだ野菜のような物体が表面を埋め尽くしており、
そのあいだからにょきにょきとフランクフルトのようなものが顔を出しています。
本能的にアマタのなかで警告アラームが鳴ったので、
くんくんとニオイをかいでみました。
すると猛烈に酸っぱいニオイがするではありませんか。
な、なんなんだ、これは!!
ヨメが得意げにのたまうには「ポトフ」だという。
冗談ではない!これは断じてポトフなどではない!!
ポトフ(pot-au-feu)とは、フランスの家庭料理のひとつで、
肉や野菜を長時間じっくりと煮込んだ料理のこと。
肉は牛のすね肉や骨付きの鶏モモ肉、
野菜は大ぶりに切ったじゃがいも、にんじん、かぶなどが定番。
いっぽう目の前にある料理はそれとは似ても似つかぬもの。
これのどこがポトフなのでしょうか。
聞けば、白っぽい物体の正体は
酢漬けのキャベツ(ザワークラウトってやつですね)で、
スープの具は他にベーコンとフランクフルトだけなのだとか。
しかも、コンソメを使わず、それらの具からでる出汁だけで作ったのが
ミソなのだとか(ミソって・・・・)。
それにしてもいったいどんなところからこんな料理を発想したのやら。
同じスープでも、こちらの美味しそうなスープとはえらい違いです。
【柘榴(ザクロ)のスープ】
大きな深鍋にオリーブオイルを入れ、玉ねぎを金色になるまで炒める。
グリーンピース、米、水、塩、黒こしょう、ターメリックを加え、沸騰させる。
火を弱めてふたをし、30分煮る。
パセリ、コリアンダー、ミント、ワケギを加え、さらに15分煮る。
その間、ラムのひき肉で中ぐらいの大きさのミートボールをつくる。
ミートボールとザクロの果汁、レモンの絞り汁を鍋に入れ、ふたをして45分煮る。
『柘榴のスープ』マーシャ・メヘラーン 渡辺佐智江・訳(白水社)は、
料理をモチーフにした、読むと幸せな気持ちになれる小説です。
ある日アイルランドの田舎町に美しいアラブ系の三姉妹が越してきます。
天才的な料理の腕を持つ長女マルジャーン。
神経質で偏頭痛もちの次女バハール。
すらりと伸びた美しい脚を持つ三女レイラー。
彼女たちは夫が亡くなって閉店していたパン屋をエステルおばあさんから借りて
ペルシア料理店「バビロン・カフェ」を開店します。
田舎町に突如現れたペルシア料理店をめぐってすったもんだがあります。
アラブ人への差別や嫌がらせがあるかと思えば、運命の出会いと恋もある。
そして物語を読み進むうちに読者は、
三姉妹が革命を前にした流血のテヘランから逃げてきたこと、
その過程でどんな苛酷なめにあったか、
どうやって生き延びてきたのかということを知るのです。
なにより素晴らしいのは、
美味しい料理が人々の心にどんな化学変化をもたらすかということが
巧みに描かれていること。
異邦人を差別する人間がいるいっぽうで、好奇心から「バビロン・カフェ」の扉を開け、
マルジャーンの作るペルシア料理の虜になってしまう人々も続出するのですが、
小説の各章の扉で紹介されるペルシア料理のレシピをみるとそれも納得。
スパイスやハーブ、フルーツなどをふんだんに使ったペルシア料理の
なんと官能的で香り高く、そして美味しそうなことか!
作者のマーシャ・メヘラーンについても触れておきましょう。
彼女はテヘラン生まれのイラン人作家で、この小説がデビュー作になります。
彼女のこれまでの人生も三姉妹のように波乱に満ちたもので、
1979年のイスラーム革命のさなか、二歳で両親とともにアルゼンチンへ脱出し、
その後、マイアミ、オーストラリア、ニューヨーク、アイルランドなどを転々として
今日にいたっています。
訳者の渡辺佐智江さんの解説によれば、メヘラーンが本書で表現したかったのは、
人々がイランという国を思い浮かべるときにイメージする暴力的な印象とは違う、
美しい祖国の姿だそう。
でも、その目的はじゅうぶんすぎるくらい達成されているのではないでしょうか。
なにしろこの小説で主人公の思い出とともに語られる「古き良きイラン」は、
宝石のような美しい輝きに満ちているのですから。
「思想」とか「革命」とかみたいなくだらないものよりも
温かい一杯のスープのほうが信じるに値する。
読み終えたとき、ふとそんなことを思いました。
料理が引き起こす奇跡を魅力的に描いたとてもチャーミングな小説。
ぜひ読んでみてください。
投稿者 yomehon : 10:00
2006年09月04日
書店員の熱意
浜松町駅に隣接したビルのなかに本屋さんがあります。
店内はなかなかの広さですが、特に品揃えに特色があるわけではない
どこにでもあるような普通の本屋さんです。
ある日のこと。
店の一角に特設コーナーができていました。
みると「今野敏先生サイン会」とあります。(※サイン会はすでに終了しています)
ベストセラーの新刊本を中心に扱う
ごくごく普通の書店という印象を持っていたので、
「今野敏」という名前に興味をそそられました。
それに「なぜいま今野さんのサイン会?」という疑問もありました。
近づいてみてようやく事情が飲み込めました。
この店のNさんという店員が熱烈な今野敏ファンらしいのです。
過去何度か今野さんを招いてサイン会をやっているほどの大ファンらしく、
手作りのポップには「この作品を読んでくれ!」という熱気がみなぎっています。
それにしても「今野敏」を選ぶセンスがいい。
ぼくの考えでは作家には二種類あります。
ひとつは「芸術家(もどき)タイプ」
そしてもうひとつが「職人タイプ」です。
「芸術家(もどき)タイプ」はおもに純文学のジャンルに棲息しています。
たまに作品を発表すると文芸誌などで特集が組まれ、
ロングインタビューが掲載されたりします。
真面目な読者はそれをみて、あたかもたいへんな問題作や意欲作が発表されたかのような
勘違いをしてしまいがちなのですが、実はたいした小説ではなかったりします。
(ピカソなどの天才の名前をあげるまでもなく、真の芸術家は多作です)
一方、「職人タイプ」は、年にいくつも新作を発表するような物語のプロたちのこと。
彼らは新作についていちいち偉そうに語ったりしない代わりに、
次々と新しい作品を生み出します。
このタイプに属する人は、乃南アサさんとか佐伯泰英さんとか
いくらでも名前をあげることができる。
作家としてどちらが優秀かと問われれば、
ぼくは迷うことなく「職人タイプ!」と答えます。
なぜなら彼らは、どの作品においても確実に、
読者が支払ったお金に見合うだけの満足を提供してくれるからです。
今野敏さんもそんな「職人タイプ」を代表する作家です。
1978年のデビュー以来、著書は100冊を優に超えるこの作家を
世間はもっとリスペクトするべきではないでしょうか。
さて、熱狂的「今野敏」ファンである書店員Nさんが
今野ワールドにはまるきっかけになったのは、
『マティーニに懺悔を』(ハルキ文庫)だそう。
商店街の人々の溜まり場になっているバーに持ち込まれるトラブルを
お茶の師匠である主人公が解決していく話。
茶道を嗜む主人公の正体が拳法の達人であるところがミソです。
実は今野敏さんは、日本でいちばん格闘シーンを描くのがうまい作家です。
ご自身が空手道三段、棒術五段の使い手で、武道塾も主宰されるほど。
その成果は作品でいかんなく発揮されており、迫真の格闘シーンはそんじょそこらの
ケンカの弱い作家の追随を許しません。
『マティーニに懺悔を』にも見事な格闘シーンが多いので
(特に第二話「ヘネシーと泡盛」における茶室での格闘シーンは凄い!)
Nさんがその魅力の虜になってしまったのも無理はありません。
うん、うん、わかるよ、Nさん。
こちらも負けてはいられない!
ぼくが今野ワールドにはまるきっかけとなった作品を紹介しましょう。
『蓬莱』(講談社文庫)は、コンピュータ・ゲームと日本の建国神話を結びつけた
傑作小説です。
主人公はゲームソフト会社の社長。
「蓬莱」という国造りシミュレーションゲームを売り出そうとしていたところ
謎の勢力から発売を取りやめるよう脅迫されます。
実はこのソフトには、日本という国の成り立ちに関わる
ある事実が隠されていたのです・・・。
こんなふうにあらゆるタイプの作品を書き、そのどれもが読者を満足させる水準にある。
そんな物語の手練れであるにもかかわらず、今野さんはこれまで賞とは無縁でした。
ところが今野さんは今年『隠蔽捜査』(新潮社)で吉川英治文学新人賞を
受賞したのです。
『隠蔽捜査』の主人公は竜崎伸也。
警察庁長官官房総務課長を務める46歳のキャリア官僚です。
人一倍エリートとしての自負心が強く、
東大以外は大学ではないという考えの持ち主です。
ある日、連続殺人事件が起こります。
被害者は過去の少年事件の加害者たちでした。
マスコミ対策に追われるうちに竜崎は、事件の真相に気がつきます。
それは警察機構を根底から揺さぶるようなものでした。
そんな折り、竜崎は息子の犯罪行為を知ります。
家族の不祥事は確実に自分のキャリアに傷をつけるものです。
職場では警察組織が崩壊しかねない事実と直面し、
家庭では息子の犯した罪と向き合わなければならない。
このジレンマのなかで、根っからのエリートである主人公は驚くべき結論を出します。
隠すのは危機管理上まずい、と考えるのです。
それは、幼なじみである警視庁の刑事部長・伊丹との会話で、
こんなふうに表現されます。
伊丹はうんざりした顔になった。
「そんなことをして、おまえに何の得がある」
「本物の官僚は損得など考えない。どうしたらシステムが効率よく本来の
機能を果たすかを考えるんだ」 (241ページ)
頭が抜群に切れる主人公は、論理的かつ合理的に考えた結果、
警察というシステムが本来の機能を果たすためには
事件の真相を隠蔽するのはまずいと判断します。
そしてなんと警察上層部と戦い始めるのです。
また家族とも真剣に対話をはじめるのでした・・・。
この小説の素晴らしいところを申し上げましょう。
読者は最初、エリート臭がぷんぷんする主人公に反発をおぼえるはずです。
「なんて偏ったヤツだ」とか「なんてイヤミな野郎だ」とか。
主人公は自分を誰よりも優秀だと考えており、
官僚は選良なのだから国のために命を捧げて当然という使命感を持つと同時に、
警察官僚としての原理原則を絶対に曲げないという頑固さも持ちあわせています。
この性格は作品を通じて終始一貫しています。
ところが、このいけ好かない主人公の性格が、状況が変わったとたん、
実に魅力的な光を放ちはじめるのです。
言い方を換えれば、平時には鬱陶しい存在だった主人公が、
危機的状況のなかでは頼りがいのある存在へと変貌するのです。
同じ人物でも、ほんの少し光を当てる角度を変えるだけで、がらりと見え方が変わる。
この小説で今野さんが読者に見せてくれているのは、
そのような高度な人物描写のテクニックです。
読者は最初に「エリートって嫌だな~」と感じるものの、
読み進むうちに「日本に必要なのは主人公のような真のエリートだ」と思うはず。
熟練の物語職人の高度な技によって、いつの間にかそう思わされてしまうのです。
物語後半における家族とのやり取りなど思わずジ~ンとするシーンもあります。
横山秀夫さんの作品にもひけをとらない警察小説の秀作!
ぜひお読みください!
・・・・って、いつの間にかぼくもNさんの熱意に感染してしまったようです。