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2006年08月28日

1年間待ったノンフィクションがついに!

「次回作はどんなテーマでお書きになるんですか?」

あれは1年前のこと。
『ナツコ 沖縄密貿易の女王』というノンフィクション作品を読んで
「これは今年いちばんのノンフィクションに違いない!!」と大コーフンしたぼくは、
さっそく著者の奥野修司さんを番組ゲストとしてお招きしたのでした。

収録が終わって奥野さんと世間話をしているときに、
ふと次はどんなテーマを準備していらっしゃるのだろうと思い、
軽い気持ちで聞いてみたのです。
ところが奥野さんから返ってきた答えに、ぼくは耳を奪われました。

「30年以上前に起きたもうひとつの“酒鬼薔薇事件”を書こうと思っています。
実はもう何年も殺された少年の遺族を取材しているのです」

もうひとつの“酒鬼薔薇事件”だって??
“酒鬼薔薇事件”というからには犯人は少年なんだろうけど、
それにしても、30年以上も前にそんな猟奇的な事件があったなんて・・・。

さらに奥野さんは驚くべきことを口にしました。

「しかも加害者の元少年は、現在は有名な弁護士として活躍しています。
その一方で、殺された少年の遺族はいまも事件の後遺症に苦しんでいるんですよ」


『心にナイフをしのばせて』(文藝春秋)は、その待ちに待った成果です。
夢中で読み始めて、気がつくと、1年間も待った作品であるにもかかわらず
たった1日で読み終えてしまっていました。


事件が起きたのは1969年(昭和44年)の春です。
神奈川県にあるカトリック系の私立高校で、
入学して間もない少年Aが同級生をナイフでメッタ刺しにしたうえ、
首を切断するという凄惨な事件が起こりました。

殺された少年は加賀美洋くんといいます。
少年Aとは中学時代からの同級生でした。
加賀美くんは背が高く、登山を愛する明るい子供だったそうです。
家族はメーカーに勤務する父と社会保険事務所でパート勤めをする母、
それに3歳下の妹がいました。

『心にナイフをしのばせて』は、序章から終章まで
ぜんぶで13の章からなりますが、そのうちの実に2章から11章までが
被害者の加賀美家の記述に費やされています。

愛する息子を喪ったが親がどんなふうに壊れていくか。
兄を殺された妹がどんなふうに道行く人に指をさされるか。
母親はショックでどんなふうに記憶を失い、
父親はどんなふうに歯をくいしばって悲しみに耐えようとするか。

圧倒的なディテールをもって、被害家族の「その後」が語られていきます。


2004年度の数字ですが、
政府が犯罪加害者の更生にかける支出は年間約466億円。
これに対し、被害者のための予算はわずかに11億円なのだそうです。

「更生」の名のもと、加害者に対しては国家の手厚い保護がなされ、
被害者側にはなんのケアもない。
その法律の不備が加賀美家に地獄をもたらしたのです。


少年Aが事件後、どんな人生をおくって弁護士になったかについては
ぜひ本でお読みください。
元少年Aは弁護士になってから被害者の母親と接触します。
ここで彼が母親に対して示した言動や行動に、多くの読者はショックをおぼえることでしょう。

 
最後に、このノンフィクションが独特のスタイルで書かれていることにも
触れておかなくてはなりません。
奥野さんは、加賀美家のその後をまとめるにあたって、
ノンフィクション作品ではひじょうに珍しい、
母親や妹が一人称で語るスタイルを採用しています。
より正確にいえば、彼女たちの記憶が欠けている部分は
奥野さんが取材して補足したうえで、モノローグとして再構成する手法をとっています。

この試みは成功しています。
事件以後、ずっと悪い夢のなかに閉じこめられ続けているような感じが
延々と続くモノローグによってよく伝わってくるからです。
それだけではありません。この手法の工夫からは
「なにがなんでも被害者の声を伝えよう」という奥野さんの思いも感じられます。


奥野修司さんは取材力に定評のあるジャーナリストです。
去年、大宅壮一ノンフィクション賞や講談社ノンフィクション賞をダブル受賞した
『ナツコ』を執筆したきっかけは、飲み屋でオジィやオバァが懐かしそうに
「ナツコ」という名前を語るのを聞いて興味を持ったことだったそうですが、
いざ取材を始めてみると文献資料などの手がかりがまったくなかったそうです。

平凡な記者ならそこであきらめるでしょう。
しかし奥野さんは違います。
ナツコの出身地だという糸満へ行き、バス停で降りると、
まず目の前にあったタバコ屋に飛び込み、そこから一軒、一軒、しらみつぶしに
「ナツコさんを知っていますか?」と尋ねてまわったといいます。
この話を奥野さんからうかがったときには、
「本物の記者というのはこういう人のことを言うのだろうな」と溜め息がでました。

今回も被害者の心の扉を開くのに、奥野さんは誠実な努力を重ねています。
超一流のジャーナリストによる執念のルポルタージュ『心にナイフをしのばせて』
ぜひ多くの人に手にとっていただきたいと思います。

投稿者 yomehon : 2006年08月28日 10:00