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2006年07月31日

オシム本のほんとうの読みどころ

サッカー日本代表の次期監督にイビツァ・オシム氏が就任するというので、
週刊誌などにこのところ大量にオシム氏に関する記事が掲載されていますが、
それらを目にするたびにおおいに不満を感じます。

記事では必ずといっていいほど
『オシムの言葉』木村元彦(集英社インターナショナル)が言及されるんですが、
でも、その取り上げられかたをみていると、
「この記事を書いた記者はほんとうにこの本を通読したのか?」
という疑問にとらわれるのです。

「今日唯一良かったのは、全員が最悪のプレーをしたという点だ」
「ライオンに追われたウサギが逃げ出すときに、肉離れをしますか?
準備が足らないのです」

こんな言葉がよく取り上げられるのですが、
これらは本の冒頭で見出し的にでてくるもので、
どうもパラパラと本をめくっただけで記事を書いたのではないかと
勘ぐってしまいます。


オシム監督はたしかに類い希なるユーモアの持ち主です。
「語録」が話題になるのもよくわかります。
でも、そのユーモアの感覚はどこで身につけたものなのでしょう?
『オシムの言葉』という本を貫いているのは、実はそのような問題意識です。

著者の木村元彦さんは、サッカー専門のジャーナリストではありません。
もともと東欧の民族問題を追っかけている人で、話題になった著書に、
『終わらぬ「民族浄化」 セルビア・モンテネグロ』(集英社新書)があります。

でも、専門のサッカー記者ではないからといって侮ってはいけない。
木村さんはおそらく、旧ユーゴスラビアのサッカーシーンに関しては
日本でいちばん詳しい人ではないでしょうか。

木村さんがイビツァ・オシムという人物に興味をもったのも、
オシムがユーゴスラビア代表監督として
祖国が崩壊する瞬間に立ち会わざるを得なかった
悲劇の名将だったからです。


イビツァ・オシムは1941年、ボスニアの首都サラエボに生まれました。

20世紀においてサラエボは、少なくとも2度、世界史の表舞台に登場します。

1度目は1914年6月28日。
オーストリア皇太子がサラエボ人青年の凶弾に倒れ、
第一次世界大戦勃発のきっかけとなります。

そして2度目は1990年代初頭でした。
ユーゴスラビアの各共和国のあいだで分離独立の気運が高まり、
ついには民族間の紛争に発展します。

91年6月にはスロベニアとクロアチアが独立を宣言。
ユーゴ連邦軍とのあいだで内戦が勃発します。

92年3月にはオシムの故郷、ボスニアにも戦火が飛び火。
セルビア系勢力がボスニア政府にサラエボの割譲を迫り、
拒否されると、戦車260台、迫撃砲120基、その他無数の狙撃銃で
サラエボを包囲しました。
後に世界を震撼させることになる「サラエボ包囲戦」が始まったのです。


スペインの作家ファン・ゴイティソーロの『サラエヴォ・ノート』(みすず書房)
当時のサラエボの街をこんなふうに表現しています。

「道を選ぶさいに少しでもうっかりしたり計算を間違ったりすると、
致命傷となりかねない。サラエヴォの住民が言うように、外に出るのは
ロシアン・ルーレットをやるようなものだ。そして誰もが水や薪や食料を得るために
外に出なければならない・・・・・」


外界から遮断されたサラエボの街では、
ビルや小高い丘などいたるところに狙撃兵が潜み、
水汲みや食料の買い出したのために外出した市民を次々と狙い撃ちしました。   
人々はみなスナイパーの銃撃をかわすために
小走りで家を出なければなりませんでした。


この「サラエボ包囲戦」は、オシムと奥さんのアシマのあいだを引き裂きました。
サラエボへの爆撃が始まる2日前にオシムと次男はベオグラードに向かい、
奥さんだけが取り残されるかたちになったのです。
アシマは当時のことをこう話しています。

「ひとりに一発ずつ、スナイパーの弾が狙っているような感じでした。
女性たちは水を汲みに出るとき、いつも薄化粧をしていました。
たとえ撃たれても、綺麗な姿で息を絶えたいと考えたからです」(101ページ)


通信手段を絶たれ、妻の安否もわからないまま、
オシムは監督としてチームを率いて戦わなければなりませんでした。
それだけではありません。
各民族の利益を代表して圧力をかけてくる政治家や民族主義者、
興味本位に対立を煽るメディア、戦争に乗じて利益をあげようとする商売人、
オシムはこのような連中に囲まれたなかで仕事をしなければならなかったのです。

そんな状況下にあるオシムを助けたのは、かつての教え子たちでした。

電話回線が途切れたサラエボに向けての唯一の連絡手段はアマチュア無線でした。
アマチュア無線は、遠くにいる特定の相手に向けてメッセージを送るには
極めて精度が低いものですが、かつてオシムの指導を受けた選手たちが
協力し合い、バケツリレーのように伝言を渡していくかたちで、
オシムのメッセージをサラエボの妻アシマに届けたのです。

殺し合いを続ける民族の垣根を超えて教え子たちの行った電波リレーは
ほんとうに感動的です。


1395日間にわたる「サラエボ包囲戦」ではおよそ1万2千人の命が奪われました。
かつてサラエボ五輪に使用されたスタジアムが遺体埋葬場になったそうです。
その墓碑銘のひとつに、もしかしたら自分の妻の名が刻まれるかもしれない。
想像もできないようなプレッシャーのなかで、オシムはプロチームの指揮を執り、
素晴らしい結果を残します。

その強さはどこから来るのだろうか。

著者の木村さんはそれをスラブ民族に特有のユーモア感覚に求めます。
「苦難をユーモアで包む竹のようなしなやかさを持つ」スラブ民族は
アウシュビッツのなかですらジョークを考えだし、
自らの境遇を笑い飛ばそうとしたといいます。

「サラエボ包囲戦」のさなかもそうでした。
戦争中であるにもかかわらず「ミス包囲戦コンテスト」が行われ、
肌を露わにしないはずのムスリム人女性もこのときだけは水着になり、
コンテストに参加したそうです。


オシムのユーモア感覚も、このような苛酷な運命の中で鍛え上げられたものです。
だとするならば、この監督の持つ精神力の強さは並大抵のものではありません。

サッカーという競技に対する深い造詣と並はずれた精神力。
オシムの名前はヨーロッパじゅうに轟いています。

日本でも「ピクシー」の名で親しまれたストイコビッチは、
「自分が接して来た中で、オシムは最高の監督のひとり」と公言してはばかりませんし、
2004年にレアル・マドリードが来日したときも、
オシムが率いているがゆえに、
レアル側はジェフユナイテッドとの対戦を望んだといいます。

祖国が激動するなか、異なる民族の集団を率いて結果を出し続けたオシムが
どれだけ偉大な監督かということを、彼らはよくわかっているのでしょう。

僕たちが迎える新監督はこのような人物です。
これから4年間、はたしてメディアは、
この監督の意図するところを正確に世間に向けて伝えることができるでしょうか。

メディアに対してオシムはどんな考えをもっているか、
探してみるとこんな言葉がありました。

「言葉は極めて重要だ。そして銃器のように危険でもある。
私は記者を観察している。このメディアは正しい質問をしているのか。
ジェフを応援しているのか。そうではないのか。
新聞記者は戦争を始めることができる。
意図を持てば世の中を危険な方向に導けるのだから。
ユーゴの戦争だってそこから始まった部分がある」(38ページ)

ただの面白いことを言うジイサンだと思ったら大間違い。
平和な国で暮らす僕らには想像もつかない
スケールの大きな人物だと思います。


投稿者 yomehon : 10:00

2006年07月24日

仏像のひみつ

ある日、体重計にのってみると、
なんといつの間にか2キロも減量しているではありませんか!
営業部に来て1ヶ月あまり。
スタジオに籠もっていることの多かった制作部の頃と違って、いまは毎日が外回り。
やせた要因を考えると、
連日外を歩き回っていることくらいしか思いつかないんですけど、
それにしてもただ歩くだけで、こんなにやせるもんなんでしょうか?

制作にいた頃だって決して運動をしなかったわけではありません。
週末はせっせとジムでウォーキングしていたんですが、
まったく効果がみられませんでした。

それが営業に来たとたん、あっという間に2キロ減。
このペースだと、あと1年で(?)ほぼ入社時の体重を取り戻すことになります。

急激にスリムになっていくぼくに、きっと同僚たちも驚くはず。
そのあかつきにはぜひ、「やせた?」と聞かれたら、素直に「うん」と頷くのではなく、
「最近、食欲がなくて・・・」とか「最近、眠れなくて・・・」などと答えたい。

きっとものすごく過酷な外回りをしているのだと思われるはずです。
そうすれば、売り上げ成績が悪くても、
「あんなにやせるほど頑張っているんだから」と同情の声が高まって・・・
(そんなわけないか)

いずれにしてもぼくのからだのなかでは何かが起きているようです。
だからでしょうか。
「仏像は、やせたり太ったりする!仏像の中には何かがある?」
という帯の文句が、店頭ですっと目に飛び込んできました。

『仏像のひみつ』山本勉著 川口澄子イラスト(朝日出版社)は、
東京国立博物館で昨年好評を博した展覧会
「親と子のギャラリー 仏像のひみつ」展の内容が書籍化されたものです。

「わかりやすさ」と「おもしろさ」において、
この本は、数多ある仏像入門書のなかで群を抜いています。

著者の山本勉さんは、東京国立博物館で教育普及室長の職にあったかた。
(現在は退職され、清泉女子大の先生)
おもに小中学生を中心とした初心者向けの企画を考えるのが仕事で、
専門的な内容をどうわかりやすく伝えるかということに関してはまさにプロです。


山本さんは「仏像たちにもソシキがある!」というところから話をはじめます。
ピラミッド型の図で、上から
①如来
②菩薩
③明王
④天
という4つのグループが示されます。そして山本さんは
「だいたいこの順番がえらい順番と思ってもらえればけっこうです」といいます。

そしていちばんえらい「如来」の説明に入っていくのですが、
それはこんなふうに説明されます。

「如来というのは、さとりをひらいた者のことです。『さとり』って何、ときかれると、
ちょっとむずかしいけれど、自分だとか世界だとかがどんなものであるかが、
すっきりとわかって、もう悩まない・・・・・、そんな状態かなぁ」(10ページ)


「だいたい~と思ってもらえればけっこう」とか
「~かなぁ」とか、
この本を読んでいると、
初心者にむけてものを伝えるときに
気を配らなければならないことはなにかということがよくわかります。

山本さんが心を砕いているのは、
「ものごとの細部よりも全体像をとにかく大づかみさせる」
ということ。

だからでしょう。
山本さんの文章には、初心者を安心させながら先へ先へと運んでいってくれるところがあって、
読者は楽しんで読み進むうちに、いつの間にか深くて広い仏像の世界に触れることができます。

仏像には「やわらかい仏像」と「カタイ仏像」があること、
仏像は時代によってやせたり太ったりすること、
そんな魅力的な切り口が次々と出てきて飽きることがありません。

夏の旅行で地方の名刹などを訪れる機会のあるかたは、
ぜひこの本を手にご家族と仏像鑑賞を楽しまれてはいかがでしょうか。


なお、この本の最後に「仏像のひみつ顛末」と題された
著者のあとがきが掲載されているのですが、
その最後の数行には、
本書の刊行を楽しみにしていたにもかかわらず、
交通事故でお亡くなりになった奥さんのことが記されていて、涙をさそいます。

投稿者 yomehon : 10:00

2006年07月18日

サラリーマンと読書

本日より新社屋での勤務。
番組スタッフはまだ四谷から放送していますが、
営業部は一足早く、55年間親しんだ四谷に別れを告げ、
浜松町にやってきました。

この新社屋、営業部は8階にあるんですが、
なにが哀しいって、個人の座席スペースが超狭いのです!
まるで「営業マンは会社にいるんじゃない!」と会社から言われているみたい。
(実際、そうなんだろうな)

たしかに営業マンは会社にいちゃマズイとは思うけれど、
これまでこっそりデスクやロッカーを書庫代わりに使っていた身としては
この省スペースぶりは痛すぎます。


でも、だからといって本を買うペースが鈍るかといえば
そんなことはまったくありえません!
たとえ会社が移転しようが、
ヨメから家に本を持ち帰るなと言われようが、
これまでと変わることのないペースで本は読み続けるのです!


ところで、たびたび人から尋ねられるのが「いつ本を読むのか」という質問。
でもそれはとても不思議な問いだといわざるをえません。
なぜなら、サラリーマンだからこそ本を読む時間があると思うからです。


『〈狐〉が選んだ入門書』山村修(ちくま新書)は、
見事な文章で本読みを魅了し続けてきた匿名の書評家〈狐〉が、
はじめて世間にその正体を明らかにした話題の一冊です。


1981年2月から2003年7月末まで、
22年半にわたって日刊ゲンダイに連載された〈狐〉の書評は、
「紹介された本そのものよりも、書評のほうが面白い」、
そういうものでした。

〈狐〉の書評は、わずか800字ほどのなかに
手際よく本のエッセンスがまとめられたうえに
そこに〈狐〉独自の見解も添えられた、きわめて完成度の高いものです。

そんな書評の名人〈狐〉が、
初めて覆面をとってぼくたちの前に姿を現しました。


〈狐〉こと山村修さんは1950年東京生まれ。
慶應大学文学部のフランス文学科を卒業後、
都内の私立大学の図書館司書をながく務めていらっしゃったようです。
今年の3月末で職場を早期退職され、現在は随筆家。
著者近影を拝見すると、巣穴からでてきた〈狐〉の正体は
髭をたくわえた渋いオジサンでした。


『〈狐〉が選んだ入門書』は、
「入門書こそ究極の読みものである」
という観点から〈狐〉が各分野から選んだ25冊の入門書を紹介した一冊。
その素晴らしいセレクションぶりはぜひ本をお読みいただきたいのですが、
ぼくが深く共感をおぼえたのは、「私と〈狐〉と読書生活と」と題されたあとがきです。


世の職業人でいちばん自由に読書ができるのは、
研究者でもなく、評論家でもなく、勤め人であると著者はいいます。

それはこういうことです。
サラリーマンには長い拘束時間があるけれど、
いったん職場を離れれば自由が保障されています。
これが研究者だとそうはいきません。
篤実な研究者であればあるほど自分の専攻分野を掘り下げるのに忙しく、
趣味の読書をするヒマがないのです。


「本を読むくらいの時間は意外とつくりだすことができる」ということを
著者が知ったのは、書評を書き始めてからだそうです。

日刊ゲンダイ編集部にいた友人に書評を書けとそそのかされ、
当初は「サラリーマンにそんな時間があるわけない」と断ったものの、
どうしても引き受けざるをえなくなり、
のちに日刊ゲンダイ名物となる長期連載がスタートしました。
ここで著者は発見をします。
「読みたい、知りたいというわくわくする関心さえあれば、
たとえかつかつでも、なんとか時間はつくりだせる」ということを。


しかも、サラリーマンと書評家のふたつの時間を持つことは、
予期せぬ効果をもたらしました。山村さんはこんなふうに表現します。


「サラリーマンだからよかったのです。サラリーマンとしての仕事と、
本を読んで書評を書く仕事とは、それぞれ画然と異なる別世界に属することです。
だから毎夜、帰宅すれば自室のなかにべつの時間がひらく。
たとえば物理的な一時間が、関心と欲求とを動力にすれば、
じっさいに倍にもつかえる。その動力をフル回転させれば、三倍にもつかえる。
サラリーマンとしての時間から、あたうるかぎり遠い、
ふしぎに自由でうれしい時間です」(226ページ)


深く共感できるいくつものポイントがギュッと凝縮された文章です。

会社にいるときのぼくと、本を読んでいるときのぼくは、まったく別の人間です。
ですから仮にぼくが会社でイジメにあっていたとしても、
本を読んでいるときはきれいさっぱりそのことを忘れているでしょう。
一日のなかにもうひとつ別の時間を持つということは、
精神衛生上、素晴らしい効果をもたらしてくれます。

また時間が伸び縮みするということも、本を読んでいて実感します。
没頭すれば、1時間のうちに数冊の本を読むことだって可能です(ほんとうです)。

〈狐〉こと山村修さんの述懐は、本読みならきっと誰もが頷けることでしょう。


読書のもたらす豊かな果実。
その果実を味わえるのは、サラリーマンの特権なのです。

投稿者 yomehon : 10:00

2006年07月15日

直木賞予想は50点

ダブル受賞も予想どおりだった。

森絵都の受賞も想定内だった。

しかしもうひとりを外すとは・・・。


第135回直木賞の受賞作が決定しました。

三浦しをん 『まほろ駅前多田便利軒』(文藝春秋)
森絵都   『風に舞いあがるビニールシート』(文藝春秋)


伊坂幸太郎さんは今回も受賞を逃してしまいましたね。
まだ各選考委員の選評を目にしていないのですが、
もしかしたら彼らには、作品の重要なモチーフだった「ロック」が理解できなかったのかもしれない。
やっぱ渡辺淳一センセイはラモーンズは聴かないよなぁ・・・。


前回も書きましたが、今回の候補作を純粋に完成度だけでみると、
圧倒的に抜きんでていたのは、宇月原晴明さんの『安徳天皇漂海記』でした。

この作品はすでに第19回山本周五郎賞を受賞しています。
選考委員の北村薫さんは、
「大きく、豊かな物語の海を漂う楽しみがあった。最も飛び抜けていた作品」
と評していますが、同感です。

ただしこの作品は読者を選びます。
いっぽう直木賞にふさわしいのは、誰が読んでも面白く読める作品です。

その意味では、今回の受賞2作品はどちらもたいへんに読みやすく、そこそこに面白く、
実に直木賞らしい受賞作といえるかもしれません。

でもなぁ。
なんか選ばれた作品はどちらもすごくオーソドックスなんですよ。
それじゃ面白くないと考えて、より深みのある森作品を残し、
ちょっと毛色の変わった青春小説をくっつけたのがぼくの予想だったんですが。

選考委員のセンセイがたにはもっと冒険してほしかったっす。


投稿者 yomehon : 00:05

2006年07月12日

第135回直木賞直前大予想!~後編

(前回からの続きです)

さて、いよいよ直木賞の本命候補を検討していきましょう。

まずはじめは、いまや直木賞候補の常連となった伊坂幸太郎さんの『砂漠』。

仙台の国立大学を舞台にした青春小説です。
おもな登場人物は3人の男子大学生と2人の女子大生。

いくつかの事件が物語の縦糸になっていて、
ある事件のせいで登場人物のひとりが深刻な事態に陥ったりもするのですが、  
全体のテイストはいつもの伊坂作品と同じ、「軽妙洒脱」です。

では、いつもの伊坂作品にはみられない要素はないのかと
問われれば、あります、それは「麻雀」と「ロック」。

麻雀の記述は麻雀を知らない人には退屈かもしれません。
一方、ロックを取り入れたことは作品の成功に結びついていると思います。

この小説を読む人はみな「西嶋」という登場人物が強く印象に残るはずです。
飲み会の席でマイクを独占し延々と世界平和について語る男。
本気になれば砂漠に雪を降らせることだって可能だと豪語する男。
その度を超えた熱さが周囲を辟易させるのですが、本人はおかまいなし。
ともかく強烈な存在感をもつ男なのです。

ロックがここにどう関わってくるかというと、
西嶋の発想や行動の根っこにあるのがパンク・ロックなのです。
また、この西嶋には明確なモデルがいることも
ロック好きの読者にはわかる仕掛けとなっている。

西嶋のモデルはおそらく
ロックバンド・サンボマスターのボーカル、山口隆くんでしょう。
というか、喋り方といい暑苦しいキャラといい、西嶋は山口くんそのものです。
ロック好きな伊坂さんはたぶんサンボマスターのファンなのでしょうね。

(ちなみに、山口くんのキャラを知りたい方は、雑誌『クイック・ジャパン』の
65号
を入手してください。あの偉大な大瀧詠一センセイとの対談で、
大瀧さんに対してとんでもない口の利き方をしていて笑わせてくれます。)


『砂漠』はとてもスマートな青春小説ですし、
誰が読んでもそれなりに楽しめるはずです。
でも正直いって、前回の候補作『死神の精度』のほうが完成度は上です。
そこをどう判断するかですが、
伊坂さんはもういつ直木賞を獲ってもおかしくありません。
実力も知名度も申し分なし。
はっきりいって機は熟し切っています。


お次は森絵都さんの『風に舞いあがるビニールシート』。

全部で6編がおさめられた短編集なのですが、そのすべてが
「運命の歯車がカチリと音をたてて回り出す、その瞬間をとらえようとした」小説です。

たとえば表題作の「風に舞いあがるビニールシート」。
国連難民高等弁務官事務所で働く日本人女性が主人公です。
彼女は同僚のアメリカ人男性と7年間の結婚生活を送りましたが、
専門職員として紛争地域を駆けめぐる夫と一緒に過ごせた時間は
わずかでした。

すれ違いから離婚を選ぶふたり。
けれど元夫はその後、アフガニスタンで命を落としてしまいます。

抜け殻のようになった彼女。
その彼女が徐々に立ち直っていくまでの心理的プロセスを
作者はとても丁寧に追いかけていきます。

「風に舞いあがるビニールシート」というのは、
戦争にほんろうされる難民たちの生活を喩えた比喩ですが、
読んでいるうちに、難民だけではなくわたしたち誰もが、
いつ何時、突風に吹き飛ばされてもおかしくない
弱い存在だということに気づかされるはずです。

けれども、深い悲しみに沈む人間も
いつしか心のスイッチがパチンと切り替わるときがくる。
森絵都さんはその瞬間をなんとかつかまえようとしています。
「人は前に進むことができる」
そんなメッセージが込められた、大人のための上質な短編集といえるでしょう。


さて最後は、今回の候補作のうちもっとも抜きんでた作品
『安徳天皇漂海記』です。

宇月原晴明さんはまだそれほど知名度はありませんが、
批評家と作家というふたつの顔を持つたいへんな実力派です。

大学在学中に『早稲田文学』の編集にたずさわり(このときの同僚が重松清さん)、
永原孝道名義で発表した青山二郎をめぐる論考で三田文学新人賞を受賞。

一方、宇月原晴明名義では『信長 あるいは戴冠せるアンドロギュヌス』
日本ファンタジーノベル大賞を受賞。
「信長は実はアンドロギュヌス(両性具有)だった」というアイデアに
みられるように、宇月さんの小説はいつも発想が独特です。

『安徳天皇漂海記』も例外ではありません。
物語は二部にわかれており、
一部の主人公は源実朝、二部の主人公はマルコ・ポーロです。
そして時空を超えて両者をつなぐのが安徳天皇なのですが、
この安徳天皇、子供の姿のまま、琥珀の玉のなかに閉じこめられています。

・・・こんなふうに説明してもなんのことやらわからないかもしれませんね。
要は奔放な想像力で描かれたホラ話なのですが、
この小説のスゴイところは、いくつもの先行作品が折りたたまれるようにして
小説のなかに取り込まれているところです。


たとえばこの小説の書き出しをみてみましょう。


まず、「建歴元年、十月大。十三日」うんぬんと
『吾妻鏡』(鎌倉幕府の歴史書)からの引用が記された後、
ひとりの語り手がでてきて、こんなふうに物語を語り始めます。


「あなた方は、小林の大臣さまや太宰の僧正さまの遺されたものには、
すでにお目をとおされたとおっしゃるのですね。
それでは鎌倉右大臣さまについて、私よりほか誰も知らぬところ、
嘘偽りなくお話し申し上げましょう」


冒頭から作者は遊んでいます。
ここで「小林」といっているのは小林秀雄のこと。
「太宰」は太宰治のことです。
小林秀雄には『実朝』、太宰治には『右大臣実朝』という作品があります。
要するに「このふたりの著作を下敷きにしていますよ」というサインを
作者は語り手の語りのなかに埋め込んでいるのです。


さらにいうなら、読み進むうちに、どうやらこの物語のアイデアじたいが
渋澤龍彦の遺作『高丘親王航海記』(文春文庫)に基づいているらしいと
いうこともわかってくる。


ともかく、作者の博覧強記ぶりといったらたいへんなもので、
物語の奇抜さとあいまって、
候補作のなかでももっとも個性的な光を放つ作品となっています。

これは本好きにはこたえられない小説ですね。
特にどんな作品が下敷きになっているか読み解く楽しさは格別です。
だからついついこの『安徳天皇漂海記』を直木賞に推したくなるのですが、
う~ん、でもどうなんだろう??

直木賞受賞作は、ふだん本を読む習慣のない人も手に取ります。
そう考えると、この小説はあまりに歯応えがありすぎるような気がするのです。
直木賞にふさわしいのは読みやすさと面白さを兼ね備えた作品。
となると、 『安徳天皇漂海記』は(ぼくはいちばん好きだけど)外さざるを得ない。

では、第135回直木賞受賞作はどれか。
そろそろ結論を出さなくてはなりません。


う~ん、う~ん(しばし黙考)


よし決めた!!
第135回直木賞は

伊坂幸太郎『砂漠』
森絵都『風に舞いあがるビニールシート』

以上2作品のダブル受賞であると、わたくしは予想します!!


※直木賞選考委員会は7月13日(木)午後5時からです。

投稿者 yomehon : 10:00

2006年07月10日

第135回直木賞直前大予想!~前編

みなさんこんにちは。
自称「世の中でいちばん当たる」直木賞評論家のしゅとうです。

前回も見事受賞作を的中させ( 『容疑者Xの献身』 )、
眼力の確かさを満天下に知らしめたはずなのですが、
なぜか不思議なことに誰もホメてくれませんでした・・・。

でもいいのです。
直木賞の受賞作予想はライフワークですから。
今回も(誰からも頼まれていないにもかかわらず)受賞作をずばり予想しましょう!


例によって候補作は文藝春秋社のホームページでみることができます。

第135回直木賞候補作は、

伊坂幸太郎 『砂漠』(実業之日本社)
宇月原晴明 『安徳天皇漂海記』(中央公論新社)
古処誠二  『遮断』(新潮社)
貫井徳郎  『愚行録』(東京創元社)
三浦しをん 『まほろ駅前多田便利軒』(文藝春秋)
森絵都   『風に舞い上がるビニールシート』(文藝春秋)


以上の6作品。


う~む、今回はことのほか予想が難しいようです。
なぜ難しいのか。


今回の候補作のうち、ひとつだけ抜きんでた作品があります。
それはもう歴然と抜きんでている。(どの作品かは後述)
では今回の直木賞はそれで決まりかといえば、
そうとはいえないところが予想の難しさなのです。

だんごレースならまだしも、
抜きんでている作品があるにもかかわらず予想が難しいとはどういうことか。


賞にはそれぞれ固有の性格とでもいうべきものがあり、
しばしばそれが賞の行方をも左右します。

直木賞も例外ではなく、受賞作を的中させるには、
直木賞独特の性格を見極めなければなりません。
さしあたっては、以下のような心得に基づいて予想を組み立てる必要があります。


【直木賞の心得その①】 「直木賞は一大イベントである!!」

そもそも直木賞(と芥川賞)は、本の売り上げが落ちる時期に、
いかに本を売るかと考えた末に菊池寛が思いついたイベントでした。
はじめから社会的におおきな話題となることを狙って創設された賞なのです。
「賞を与えることでどれだけ話題になるか」ということは、
受賞作を予想するうえでも見逃せないポイントとなります。


【直木賞の心得その②】 「シロウトさんにも気を遣え!」

ひとたび直木賞受賞作ともなれば、その注目度は倍増、いえ10倍増です。
受賞作が発表された翌日に書店に行ってみてください。
特設コーナーがつくられ、ふだんは書店に足を運ばないシロウトさんたちが
受賞作めざしてやってきます。
シロウトさんたちは、本を探しもしないでまっすぐにレジにやってくるので
それとわかるのですが、前回、東野圭吾(ひがしの・けいご)さんの
『容疑者Xの献身』
が受賞した翌日に、
ぼくが書店で目撃したシーンをお話すると、レジで

「トウノ・ケイゴさんの『容疑者Xの献身』はありますか?」

と聞くのはまだいいほうで、なかには

「すいません、『容疑者Xのヘンシン』はありますか」

と尋ねている人もいました。
このように、ふだんは本を読まない人も「手にとってみたい!」「読みたい!」と
思わせるのが直木賞のスゴイところ。
であればこそ、受賞作はせっかく本を手に取ってくれた新規のお客さんを
がっかりさせるようなものであってはなりません。
「万人受けする」という条件も直木賞の受賞作には欠かせない要素なのです。


【直木賞の心得その③】 「選考委員の読解力に気をつけろ!」

予想をいちばん難しくしているのがコレ。
選考委員のセンセイがたの存在です。
本屋さんが選ぶ「本屋大賞」はぼくの予想といつもぴったりんこなのですが、
直木賞は選考委員の信じられないイチャモンなどで
予想もできない結論に落ち着いたりすることがしばしば。
(今回も○○の読解力には要注意だ・・・)

さぁそれでは!
以上のような条件を踏まえたうえで各候補作を検討していきたいと思います。


まずは貫井徳郎さんの『愚行録』です。
誰でも知っているあの一家殺人事件をモチーフにしたこの作品。
いろいろな人の証言のなかから、事件の意外な姿と人間の愚かしさが
浮かび上がってくるという凝った仕掛けです。

テクニックを駆使して描かれた作品ですが、直木賞はちょっとムリかもしれません。
というのはこの作品、読後感がものすごく悪いのです。
読後感をひとことでいえば「いや~な感じ」。

もちろん貫井さんはわざとそういう作品を書いているので、
その意味では作家のテクニックにまんまとはめられてしまったわけですが、
さきほどの【直木賞の心得その②】に照らすと、
この作品が直木賞受賞するとは思えません。

めったに本を読まない人たちが、
たまたま直木賞受賞作だというのでこの本を手に取ったらどうなるか。
たぶんリピーターにはなってくれないでしょう。


次は古処誠二さんの『遮断』です。
物語の舞台は昭和20年の沖縄。逃亡兵が幼なじみの女性と出会い、
置き去りにされた彼女の子供を探すために島を北上します。
戦争文学がいつもそうであるように「極限状態に置かれた人間」を描いています。

古処さんはこのところ憑かれたように沖縄戦を書いています。
たいへんに実力のある若手作家ですが、
このような作品をみると、ついついぼくは、
戦争文学の系譜のなかにこの作品を置きたくなってしまうのです。

「これまでに書かれた多くの戦争文学と比べて、
『遮断』は新しい光を放っているだろうか?」

読み応えはじゅうぶんにあるし、筆力もあります。
でも、この作品は戦争文学としてオーソドックスすぎるのではないか。
オーソドックスすぎて、以前どこかで読んだような気すらしてしまう。
はたして受賞作として大きな話題となりうるでしょうか。
大切なテーマを扱っていることはわかりますが、
これも【直木賞の心得その①】に照らして受賞は厳しいのではないかと思います。


次は、三浦しをんさんの『まほろ駅前多田便利軒』です。
「まほろ市」という東京近郊の街で便利屋を営む多田という男が、
同級生の行天とともにいろいろな「困り事」を解決していきます。

まほろ市のモデルは町田市のようです。
それを踏まえてこの小説をひとことで表現すれば、
「町田市を舞台にした“傷だらけの天使”」ですね。

「ペットの世話」であるとか「恋人のふり」であるとか
持ち込まれる依頼はささいなものばかり。
でもそのささいな依頼から、ある人間ドラマが浮かび上がってくる。
そんな仕掛けになっています。

すぐにでもテレビドラマ化できそうな作品。
ふだんは本を読まないシロウトさんも安心して読めるでしょう。

ただなにかが足りないのです。
受賞作に必要なインパクトというか、アクが足りない。
それはなんだろうと考えてみたのですが、
この作品に欠けているのは「ハードボイルド」のテイストではないでしょうか。

作者も多少はそういう部分を出そうとしていますが、不徹底に終わっています。
主人公をもっともっとハードボイルドに描けば、カッコよさと情けなさ、
やせ我慢と強がり、コミカルな部分と泣ける部分のコントラストがでて、
印象に残る作品になったのではないかと思うのですがどうでしょう。

関川夏央さんが原作を、谷口ジローさんが画を担当した
名作マンガ『事件屋稼業』シリーズなどをぜひ参考にしていただきたい。
続編も書けそうですから次回に期待したいと思います。

                                 (次回に続く)

投稿者 yomehon : 10:00

2006年07月07日

これぞ「オマージュ」のお手本!

「オマージュ(hommage)」という言葉があります。
フランス語で「尊敬」や「敬意」「献辞」を意味する言葉ですが、
芸術の分野で使われることが多く、
その場合は、「尊敬する芸術家に敬意を表する」、
または「優れた先行作品に敬意を表した作品」を意味します。


たとえばブライアン・デ・パルマ監督の『アンタッチャブル』という映画作品がありますが、
このなかで、銃撃戦のさなかに、階段を乳母車が落ちていく場面が出てきます。
これは映画ファンなら誰でも一発でわかる
エイゼンシュタイン監督『戦艦ポチョムキン』の有名なシーンへのオマージュ。

『戦艦ポチョムキン』は、モンタージュをはじめとする映画の文法を確立させた
映画史に残る大・大・大傑作です。
デ・パルマ監督は、その作品の一部を引用することで、
「こうして映画が撮れるのも偉大な先輩のおかげです。ありがとうございます」
とエイゼンシュタイン監督にオマージュを捧げているのです。


ぼくはオマージュには大切な原則がふたつあると思います。
敬意を表する相手や作品が誰もが知っている超有名なものであること。
自らのオリジナルな作品のなかに「オマージュ」を挟みこむこと。
このふたつです。

「先行する芸術家や作品が一般にそれほど知られていない」うえに
「先行作品とまったくのうりふたつ」という場合は
「オマージュ」に該当しません。

ですから、最近話題になった某日本人画家をめぐる騒ぎなどは
いくら本人が言い張ってもオマージュとはいえません。
正しくは「模写」もしくは「盗作」です。


「これぞお手本!」と拍手したくなるオマージュの名手といえば恩田陸さん。
恩田陸さんの小説は、そのほとんどが先行作品へのオマージュです。

『小説以外』(新潮社)というエッセイ集のなかで恩田さんは、
自分の小説には萩尾望都の作品を下敷きにしたものが多いと明かしたうえで、
読者にはぜひ自分の作品を入り口にして優れた先行作品も読んでほしいと
語っています。

では新作『チョコレートコスモス』(毎日新聞社)はどうでしょうか。
演劇を題材としたこの小説は、ずばり『ガラス仮面』に捧げられた
オマージュではないかと思います。


伝説の演出家がひさしぶりに演出するふたり芝居の主役をめぐって、
オーディションがひらかれます。

オーディションには往年の大女優や演技派への脱皮をはかるアイドル、
芸能一家に生まれた若き天才女優などが参加するのですが、
ここに彗星のごとくひとりの少女が現れます。

この少女は芝居をはじめてまだ日が浅いにもかかわらず
たいへんな才能をもっています。
やがて少女の演技に多くの舞台のプロたちが驚嘆させられることになります。


・・・・・と、こんなふうにストーリーを要約したからといって、
この小説のほんとうの面白さを説明したことにはなりません。

この小説のいちばんの読みどころは、
舞台で役者が肉体を駆使して演ずる芝居を、
言葉でどこまで表現できるかということに小説家が挑んでいるところです。

舞台の上ではどんなことが起きているのか、
スポットライトの下で役者はどんな心理状態にあるのか、
舞台芸術の核心部分を恩田陸さんは巧みに言葉で表現していきます。

たとえばオーディションで
主人公が「若い女性」と「中年男性」を演じ分ける場面を描いたところでは、


「女性が男性を演じようとすると、つい胸を張り、いかつい表情を作り、
乱暴な動作で男性性を強調しようとする。(略)
だが、実際のことろ、若い女性と中年男性の違いはどこかといえば、
たたずまいというか、世界に対する緊張感の違いなのである。
若い女性は、これから自分が漕ぎ出ていく世界に対しては緊張しているが、
世間に対しては無防備だ。(略)
中年男性はこれが逆になる。世間に対しては緊張感を抱いているのに、
世界に対しては無防備なのだ。視野が狭くなり、構わなくなる、と言い換えてもいい。
ゆえに、若い娘の自意識過剰さが、中年男にはない。
どこか弛緩した、鈍い雰囲気が漂うのである。そのくせ、世間の目には敏感で、
神経質になったり、姑息になったりする。
飛鳥は例によってその特徴を見事にとらえていた」(368ページ)


役者はどんなふうに役作りをするのか、
「間合い」や「呼吸」というのは要するにどういうことか、
芝居の本質に関わることを恩田さんはこのように言葉で表現していきます。
まるでこの小説全体が恩田さんの手になる「演劇論」のよう。
読んでいると無性に芝居がみたくなります。


『チョコレートコスモス』はまた「オーディション小説」でもあります。
オーディション参加者には難しい課題が次々に課せられ、
それをどうクリアしていくかということが物語の面白さになっているのです。

どれくらい難しい課題か。
たとえば3人が登場する芝居をふたりでやれといわれる。
ひとりが2役やればいいと思うかもしれませんが
そんな生やさしいものではありません。
台本には3人が同時に舞台上にいなければならない場面もあるのです。

この難局をどのように乗り切るかが
もっとも小説家のアイデアが試されるところですが
恩田陸さんはこちらが「あっ!」と思うようなアイデアを繰り出してきます。


「なんということだ。
神谷の頭の中では、がんがんと鐘のようなものが鳴り響いていた。
彼女は完璧に台本をこなしたー二人で三人の芝居を演じるという条件をクリアした。
それどころか、演出までしてしまったのだーこの『開いた窓』という一編の芝居を、
オリジナルの解釈で完成させてしまったのだ。
たった二枚の布を使って」(375ページ)


たった2枚の布を使って、主人公の佐々木飛鳥はどんな芝居をみせたのか。
それは読んでのお楽しみ。
「すげぇ!!その手があったか!!」という驚きは確実に保証します。

それにしても恩田陸さんがこれほどまでの演劇通とは知りませんでした。
というわけで最後に業務連絡を。

舞台関係者のみなさんはいますぐ恩田さんに戯曲を依頼すること!
そして担当編集者はすみやかに恩田さんに続編の執筆をお願いすること!

投稿者 yomehon : 10:00

2006年07月05日

カズオ・イシグロの最高傑作!

幸運なときは年に2度ほど、
ツイていなければ数年に1度くらい、
つまりはごくごくまれな割合で、
このまま読み終えてしまうのが惜しいような、
読み終えたあともずっとその余韻が残るような一冊との出会いがあります。

そういう本に没頭しているときというのは、
比喩ではなく、ほんとうに時がたつのを忘れます。
『わたしを離さないで』カズオ・イシグロ 土屋政雄【訳】(早川書房)
ヨメの実家の座敷に寝転んで読んでいたときもそうでした。

最後の一行を読み終えて目をあげると、
いつの間にか雨が降っていたのに驚きました。
庭土の湿り具合をみると、もうずいぶん前から降っていたようです。
そのときにわかに雨足が激しくなりました。
張りのある若葉がパラパラと雨をはじく音が聞こえます。
その生命力にあふれた音を耳にしながら、
ぼくは、たったいままで読んでいた物語が
命をめぐる物語であることを思い出していました。


物語の語り手は、キャシーという女性です。
キャシーの職業は「介護人」。
介護人の仕事は「提供者」と呼ばれる人々の介護です。

このように、導入からいきなり大きな謎が待ちかまえています。
しかも読み進んでいくにしたがって謎はどんどん大きさを増していくのです。

「介護人」とはなにか。
「提供者」とはなにか。

それでも謎を抱えたまま読み進むうちに、
少しずついろいろなことが明らかになっていきます。

キャシーは「ヘールシャム」という施設にいたこと。
トミーとルースという仲間がいたこと。
ヘールシャムでは「保護官」と呼ばれる人々が授業を行っていて、
毎週のように健康診断が行われていること。
生徒たちはどうやら外部社会との接触がないこと。

読者がその「普通ではない世界」にようやくなじんだ頃、
こんどは少しずつヘールシャムの真実が明らかにされていきます。

それは衝撃的なものです。
真相を知った読者は、
彼らの人生があまりにも可能性を閉ざされたものであることに
愕然とするでしょう。


こんな場面を想像してみてください。
青春を謳歌して暮らしていたある日、
「あなたはもうすぐ死ぬのですよ」とか
「あなたには人並みの人権はないのですよ」と告げられたとしたら
どんなふうに感じますか?

『わたしを離さないで』は、
そんな過酷な運命にさらされた若者たちについて書かれた小説なのです。

小説のなかで描かれているのはふたつの事柄です。

ひとつは、「かけがえのない時間」について。
残された時間がそう多くはないことを知った途端、
若者たちの人生は切なく輝きを増します。

そしてもうひとつは、「人間は孤独であるということ」。
この小説の表紙にはカセットテープがデザインされています。
物語の重要なモチーフとなっているのが
「Never Let Me Go(わたしを離さないで)」という曲なのですが、
この曲がキャシーらの孤独をより際だたせます。


それにしてもカズオ・イシグロはたいへんな傑作を書き上げました。

ざっと小説の歴史をふりかえってみると、
19世紀までの小説は「人間」を中心に書かれていました。
その内容は人間讃歌であり英雄物語であったといえます。
(例としてはバルザックの『人間喜劇』をあげれば十分でしょう)

それが20世紀になると変わります。
「システム」や「テクノロジー」が驚異的に発展したために、
かつては前面にでていた人間が後景に退くようになります。
言葉を換えれば、システムやテクノロジーが発達するにつれて、
人間のできることがどんどん狭まっていき、
小説で描かれる人間像が小さくなっていきました。

けれどもカズオ・イシグロは、この『わたしを離さないで』において、
今日的な「テクノロジー」の問題を扱いながら
「人間」を復権させることに成功しています。

テクノロジーとシステムによってがんじがらめにされたなかにあって、
それでも輝きを放つ人間の生を見事に描いているのです。
(その輝きがどんなに切なく哀しいものであるにしても)


『わたしを離さないで』は、
発売後ただちに『タイム』誌の「オールタイムベスト100」
(1923年~2005年までに発表された作品が対象)に選ばれたのをはじめ、
欧米の主要な新聞や雑誌で次々に2005年のベストブックに選ばれるなど
昨年英語圏でもっとも話題になった小説です。

とても味わい深い小説です。
「最近いい小説を読んでないな」という方には特におすすめします。

投稿者 yomehon : 10:00

2006年07月03日

 リニューアル!!

おお!いつの間にかスーツ姿に変わっている!!

・・・・というわけで、営業マンになってもこのブログは続くことになりました。

異動してまもなく1ヶ月がたとうとしていますが、いまだ売り上げゼロ(泣)。
それに加えて、いまだ読み終えた本もゼロ・・・(こっちのほうが深刻だ)。

それにしても営業というのは本が読めないところですね。
制作にいたときは、いかにも仕事をしているふうを装って本を読んでいても
不審には思われなかったのが、営業ではそうはいかない。

だって想像してみてください。
みんなが出払ってしまった営業部で、ひとりデスクに座り本を読む男を・・・。

そんなの、即クビに決まっています。

本を読むヒマがあったら稼いでこい!というのが営業の世界。
たとえ外回りの途中に書店をみつけても、立ち読みなんてもってのほか。
どんなに新刊棚をチェックしたくても、
歯を食いしばって通り過ぎなくてはならないのだ!
そんなプロフェッショナルな営業マンになるのだ!

・・・・・というように、意気込みだけはあるのですが、
情けないことに、外回りの途中で本屋に入るのをガマンできたことは皆無。
しっかり棚をチェックし、たっぷり店内を回遊し、大満足で店を出ると、
「い、いかん、お客さんとの約束の時間が・・・」

それもこれも街に魅力的な書店が多すぎるのが悪いのです。

ぼくの話がウソだと思う人は、
『ブックショップはワンダーランド』永江朗(六耀社)を読んでみてください。
東京にはなんと個性的で魅力的な本屋さんが多いことか!

この本は、首都圏を代表する面白い本屋さんの店主や店員に
その店の「定番」について語ってもらった一冊です。

子供の本の専門店であれば、どんな本が定番として並んでいるのか。
デザイン書専門店につねに置かれている定番とはなにか。
そんなこだわりの定番について、永江さんがインタビューしています。

「本は面白いし、本屋さんも面白いけど、本屋さんが語る本の話は
もっと面白い」という永江さんの言葉にはまったく同感。

冒頭で登場するのは、青山にある「BOOK246」という書店。
ここは旅をテーマにした本屋さんなのですが、ここの店員たちの手にかかれば、
旅という言葉に思いもよらない角度から光があてられます。

かと思えば、神保町の「南洋堂書店」なんてとこも出てくる。
ここは建築関係の本の専門店です。
建築本なんてつまらないと思う人がいるかもしれませんが
そんなことはありません。なんてたって衣・食・住というように
住むことは生活の基本ですから。

マニアックな本屋ばかりではなく、
千葉の船橋にある「ときわ書房本店」みたいな本屋さんも出てきます。
どこの街にもありそうな本屋さんにみえますが、ここもただの書店ではない。
なんと!ミステリ評論家の茶木則雄さんが店長をつとめている店なのです。


どれもこれも営業の途中にこっそり立ち寄るのに最適なお店ばかり。
これからも人目を盗みながら面白い本を入手して
当ブログでみなさんにご紹介したいと思います!

投稿者 yomehon : 10:00