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2006年05月20日

『ダ・ヴィンチ・コード』よりもこれを読め!

古今東西の物語でお馴染みの題材といえば、「イエスを裏切ったユダ」。
「裏切り者ユダ」にもとづいたシーンは、ちょっと探しただけでも
さまざまな物語に見出すことができます。

たとえば映画『ハンニバル』に出てくるこんな場面。

アンソニー・ホプキンス演ずるレクター博士が、
フィレンツェのアカデミーで居並ぶ碩学を前に講義をしています。
ダンテの神曲、そして首をつって死んだユダについて。
その直後、金のためにレクターを売り渡そうとしていた捜査官が
吊るされて殺されるのです。

自殺した(といわれる)ユダに対して、
捜査官は殺されるという違いはありますが、
このシーンのベースにあるのはいうまでもなく
銀貨30枚とひきかえにイエスを売り、その後縊死したとされる
「イスカリオテのユダ」の姿です。

このように、絵画や小説、映画や芝居などさまざまなかたちをとりながら、
「裏切り者ユダ」の物語は人類に刷り込まれてきました。


しかしこの物語じたいが間違っていたとしたら?
ユダは裏切り者などではなく、
イエスによって選ばれたたったひとりの弟子だったとしたら?

もしそれが本当なら大変なことになる。
これまで人類が紡いできた膨大な物語群は見直しを余儀なくされる。
いや、そんなことよりも、あまたの物語の源泉である「聖書」そのものが
書き換えを迫られることになるのです!!


『ユダの福音書を追え』(日経ナショナルジオグラフィック社)は、
1700年前に書かれた「ユダの福音書」の発見から復元、そして解読に
いたるまでを追ったドキュメントです。


1970年代のこと。
エジプトのナイル河畔で、
ある農夫が1500年近く人目に触れることのなかった洞穴を発見します。
初期キリスト教時代、こうした洞穴は死者の埋葬場所として利用されていました。
「もしかすると金目のものがあるかもしれない」と
洞穴を物色した農夫が見つけたのは、宝飾品などではなく、
ボロボロになった石灰岩でできた箱でした。そしてそのなかには、
古代エジプトのパピルス紙でできた写本がおさめられていたのです。


この謎めいた古文書は、それから約20年、各地を転々とし、
そのたびに劣化していきました。
ようやくしかるべき機関で修復と復元が行われることになったとき、
ある学者が「これほどひどい状態のパピルス文書は初めて見た」と語ったほど
文書の傷みは激しかったのです。

まさにギリギリのタイミングで救出された文書を解読したところ、
そこには驚くべき記述がありました。


これまで裏切り者とされてきたユダこそが英雄であり、
イエスの教えを誰よりも深く理解していた弟子だった。
そして何よりも驚くのは、イエスをローマの官憲に引き渡したのは
イエス自身の言いつけに従ったもので、
ユダはその行為が自分にもたらす運命(裏切り者の汚名を着せられること)を
すっかり承知していたというのです。

パピルス文書に書かれていたのは、
イスカリオテのユダにイエスがもたらした秘密の啓示と
地上で肉体を失うまでのイエスの最後の日々。
なんとこの文書は、1700年前に禁書とされた記録はあるものの
その後行方がわからなくなっていた「ユダの福音書」だったのです!!


この「聖書学上の大発見」には多くの聖職者が猛反発しているそうです。
無理もないことです。
「ユダの福音書」は、グノーシス派の思想にもとづくものだからです。

グノーシスは古代キリスト教の異端思想です。
この宗派は、人はラビや司教といった聖職者を通さずとも
自己の本質を知ることで神を認識できると考えることから、
正統派教会から異端として退けられてきました。
ちなみに、グノーシスについて知りたい方には
『グノーシス』筒井賢治(講談社選書メチエ)がわかりやすくオススメです。


しかし正統派がいちばん承服しかねるのは、
「ユダは裏切り者ではなかった」という部分でしょう。
正統派の根拠が揺らぐことになるからです。

けれども僕は、「ユダの福音書」にでてくるイエスのこんなセリフをみると
思わずぞくぞくしてしまうのです。

「お前は真の私の肉体を包む この肉体を犠牲とし、
すべての弟子たちを超える存在になるだろう」

肉体という牢獄から解放されるために、
イエスは自分を売れとユダに命じます。
ユダも裏切り者の汚名を着せられるとわかっていながらそれに従います。
というより、ユダにとっては、
現実世界で裏切り者呼ばわりされるなんてことはどうでもよくて、
イエスをもっと理解したいという気持ちのほうが重要だったのではないでしょうか。

たかが銀貨30枚のためにイエスを裏切るというのは、
いかにも人間の愚かさを指し示しているようではありますが、物語としてはベタです。
なんというか、凡人が考えがちなストーリーという感じがするのです。

それよりも、現実世界でどう思われようが、「自分を殺せ」という、
普通ではあり得ないイエスの命令に従ってしまうユダのほうが、
圧倒的に凄みを感じさせる。
つよい信仰をもっている人間にしか書けない深みを感じるのです。


それにしてもロマンのある話ではないですか。
現存するのはギリシア語からコプト語に翻訳されたと推察される写本のみ。
この「コプト」というのは、エジプト人をさすギリシア語が転化した古い言葉で、
コプト教はエジプトにおけるキリスト教のことです。

コプト教に関しては
『砂漠の修道院』山形孝夫(平凡社ライブラリー)という素晴らしい本が
ありますのでぜひ読んでみてください。

イスラム教が国教であるエジプトの全人口の1割占めるのがコプト教徒だそうです。
修行僧たちは、砂漠の奥深くで共同生活を営んでいるのですが、
この本は、宗教人類学を専門とする著者が、砂漠のなかの修道院を
フィールドワークした記録をまとめたもので、
88年に日本エッセイスト・クラブ賞を受賞しています。

エジプト人にとって砂漠は死の世界だそうですが、
著者が砂漠の修道院で見出すのは、
「死者たちも共にいる、明るく透明な個人主義の可能性」です。
深い読後感を残す名著です。

投稿者 yomehon : 2006年05月20日 00:03