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2006年04月24日

セレブの時代

最近街を歩いていてよく目にするのがエビちゃん風ファッションの女の子。
たとえば上はGジャン、下はふわりとしたフェミニンなミニスカートで
白い素足をのぞかせて、というのがエビちゃんファッションの典型的なパターンです。

私見ですが、エビちゃんファッションというのは後ろ姿が映えますね。
街で前を歩く女の子がエビちゃんファッションだったりするともう大変!
「かっ、かわいい!エビちゃんが歩いている!!」とついコーフンしてしまうのです。

でも、前にまわってみると「エ、エビちゃんじゃない!!」と
愕然としてしまうことが多い(というかほとんどそう)こともまた事実。

こういうことに関しては学習能力がイヌ以下ですから、
後ろ姿をみては色めき立ち、前にまわってうなだれるというパターンを
懲りることなく街頭で繰り返しています。人生ってうまくいかないものですね。

それにしても不思議なのは、蝦原友里は押切もえと並んで
ずいぶん前からCancamでお馴染みのモデルだったにもかかわらず、
こんなにエビちゃんファッションが街に溢れるのは
つい最近のことのような気がすること。

それはたぶんエビちゃんがセレブになったことのあかしなのかもしれません。
雑誌だけではなく、CMやテレビドラマにも露出するようになって初めて
彼女はセレブの仲間入りを果たしたのです。

現代文化とは切っても切れないセレブについて考察した興味深い本が
『セレブの現代史』海野弘(文春新書)です。

セレブはいうまでもなく「セレブリティ」(有名人)の略です。

昔の有名人は手の届かない存在でした。
まさに「スター」という言葉がぴったりな人々がセレブでしたが、
1970年代に入って「セレブ」という言葉は新しい意味を持ち始めます。

有名性はコマーシャリズムと結びつき巨大なセールス効果をもたらすようになり、
セレブはより人々に近い存在となりました。

誰がセレブであるかは大衆の支持によって決められるようになり、
他人の目、オーディエンスを気にする傾向がセレブ文化を支えるようになります。
(余談ですが、ダイエットが流行りはじめるのもこの頃からです)

現代においてセレブ文化はいちじるしい発展を遂げました。
セレブのライフスタイルや持ち物が気軽に真似されるようになり、
人々は彼らのスキャンダルにも喜びをみいだすようになりました。
たとえばパリス・ヒルトンのセックス・ビデオがインターネットに流出した事件では
映像が後にビデオとして発売され、全米で50万本ものセールスを記録したそうです


昔はたんなる憧れの存在だったセレブは、
現代では憧れをもって模倣される反面、軽くみられる存在にもなりました。


日本でもよくセレブと呼ばれるような人が(その人がほんとうにセレブかどうかは
別として)テレビのバラエティー番組に出演しているのを目にしますが、
いまのセレブの位置を考えれば、この戦略は利にかなっています。

番組司会者も心得たもので、適度にセレブにツッコミをいれ、
同時に彼らの身に付けたものをさりげなく自慢させ驚いてみせるというのが
定番となっています。
セレブはカメラの前に身をさらすことで、
視聴者から親近感と憧れの両方を得ることができます。

なぜセレブ(と称する人々も含む)が
すすんでメディアに登場するのかといえば、
それは「セレブが商売になるから」に他なりません。

「セレブ・インダストリー(有名人産業)」とでもいうべきマーケットが
成立しているのが現代です。
セレブが商品価値と結びつき、セレブ・インダストリーが成立することで
大衆文化としてのセレブ文化があらわれたと、海野さんは書いていますが、

「セレブ文化は大衆文化である」

というのは現代を読み解く重要なキーワードです。

『セレブの現代史』は、映画、ポップス、アート、ファッション、政治など
さまざまな分野でのセレブ現象をまとめていますが、
気になるのは「いま世界でいちばんのセレブは誰か」ということです。

『フォーブス』日本版2005年10月号の特集「世界のセレブ100」で
見事第一位に輝いたのはオプラ・ウィンフリーでした。

オプラ・ウィンフリーはアメリカの女性版みのもんたみたいな人です。
司会をつとめるトーク番組「オプラ・ウィンフリー・ショー」は
全米で毎週3千万人が視聴し、112ヶ国で放送されています。
年収は247億5千万円で、ジョージ・ルーカスの319億円に続いて2位。
あのタイガー・ウッズですら95億7千万円ですから、
いかにすごい稼ぎかがわかります。

今年52歳になるオプラは南部の貧しい黒人家庭に生まれました。
彼女のキャラクターは「感情表現が豊かな気のいいおばちゃん」といったところ。
悩みは肥満と男性関係で、オプラがダイエットをするたびにアメリカ中の話題になり、
なかなか結婚までこぎつけない恋人との関係もしばしば話題にのぼります。

現代のセレブ文化を考えるうえで、オプラ自身の言葉がたいへん示唆的です。
かつて雑誌で自宅の写真を公開した際、彼女はこう語ったそうです。

「セレブリティとして、世界からまったく離れて閉じこもるか、
世界の一部になるか選ぶことができる。
私は世界の一部になることにしたの」

つまり、かつてのスターのように世間から隠れるか、
私生活を世間にさらけ出すかで、オプラは後者を選んだということです。
セレブであるからには大衆の期待に応えなくてはなりません。
現代のセレブ文化の本質を彼女はしっかりつかんでいます。

「セレブ文化=現代の大衆文化」であるとするなら、
その影響がもっとも顕著にあらわれるのは「政治」の分野です。
政治が芸能化し、劇場型となったことを嘆く意見をよく見かけますが、
「セレブ」という切り口から眺めると、それは必然的な流れであることが
よくわかります。
この本の「第八章 政治とセレブ」はもっとも今日的な問題を扱っており必読です。

最後に、現代のアメリカでいちばんのセレブであるオプラ・ウィンフリーが
かつて憧れていたニュースキャスター、バーバラ・ウォルターズの言葉を紹介しておきます。

「人々は私に講演をしたり、本を書くことを求める。
でもその内容に関心はない。問題なのはセレブリティであること」

彼女の言葉もまたセレブ文化の本質をよくついています。

投稿者 yomehon : 2006年04月24日 17:23